〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/28 (月) にょ たい ちょう (一)

かの女の跫音あしおと に、暗い納屋の内から、ぴょんと、犬の子みたいに、飛び出した子があった。
麻丸の下の、ことし十二、三になる女の子、まどか であった。
「たいへんよ。おかあさん。たいへん」 と、円は、口をとがらせて告げた。 「── お兄さんの汚い着物やはかま が・・・・。ほら、ほら、あんな所に捨ててある」
「え、麻丸の着物が」
蓬は、驚いて、中へ駆け込み、べつな物置き棚を見まわした。そこらも、引っくり返されてある。
かねて良人おっと が、堀川どのからいただいたまま、ろくに着もせず、仕舞っておいた真新しい狩衣かりぎぬ と袴。それから太刀なども、見当たらない。
「きっと、お兄さんだ。そこの土を掘った泥棒も、お兄さんかも知れないや」
無邪気な声の似ていたが、まどか の言葉は、母親の胸を突き刺した。
もいちど、蓬は、机の奥へ、甲高かんだか く呼びたてた。
── 麻丸がと聞くと、こんどは、かの女の良人も、つんぼ ではなかった。直ぐ飛び出して来、口をそろえて、妻や円が、麻丸の仕業しわざそし るのを聞きながら、かれもやや平静を欠いた面持ちだった。納屋の内や外を、泣きたいような眼で見返した末、
「・・・・一人じゃないね」
ぽつんと言ったきり、あとは茫然ぼうぜん と、腕組みしている麻鳥だった。
「え。大勢ですって」
「日蔭の土をごらん。小さい跫跡あしざと が、やたらに残っているじゃないか」
「じゃあ、麻丸が餓鬼の大将になって、以前、うちにいた悪い子たちを、引っ張って来てやった仕事かも知れませんね」
「多分、そんなことだろう。・・・・だが、よその家でなくてよかったよ」
「お金ばかりか、太刀や狩衣まで持ち出して。・・・・今に何を仕でかすやら知れたものじゃありません。ああとんでもない子になってしまった。それもこれも、あなたが、自分の貧乏や子どものことは考えず、ひとのおせっかいばかりに暮れていたからですよ」
「今さら、そんな繰り言をいってみたって、どうにもなるまい」
「親として、これがしゃ ア酒アとしていられますかね。わたくしは・・・・わたくしは、くやしい。あんな良い子を、大それた盗みをするような子にしてしまって」
蓬は、袖口を んで、泣きじゃくった。そばへ寄り添って来るまどか を抱き寄せて、また、
「ね、まどか。おまえだけは、そばにいておくれ。おとう さんが、ああなので、子どもにまで、あいそを尽かされてしまうんだよ。家さえ、困らなければ、麻丸だって、悪い方へ れるはずのない子だもの。だけど、医師のわざ はありながら、お父さんって人は、貧乏が性に合っていて、好きこのんで、わたくしたちにまで、ボロを下げさせているんだからしょうがない。何かの因縁だろうと、おかあさんも、あきらめてはいるけれど・・・・」
まどか へ言っているのだが、じつは良人への恨みつらみな愚痴でしかない。いいつのる女の愚痴というものは、どこかに持つ、幼稚な憐れさを男にもよお させ、男をして、突然、滑稽こっけい な感に耐えなくさせるものでもあった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next