「じゃあ、わたくしは知りませんよ。わかりましたね」 「何がさ。しつこいな」 「盗まれたお金の話じゃsりませんか。ちょっと起って、納屋を、見ても下さらないで」 「あきらめるしかないもの」 「こんなことなら、いっそ、暮らしの方へ、少しでも費
っておいたら、どんなに、わたくしも助かっていたか知れやしない」 「愚痴はよそう。金は金、たれかの手で、何かにつかわれているだろうよ。・・・・さ、あっちへ行っておくれ、あっちへ、あっちへ」 麻鳥はまた、机の上に頬づえを乗せた。そして、むずかしい漢書へ眼をさらし始めると、もう何を言っても、見向きはしない。 「・・・・ひとを、蠅はえ
でも追うように」 意地になって、蓬は、良人おっと
の背骨を相手に、まだ、すわりこんでいる。 なんていう人だろう、この人という人は。 連れ添っても、連れ添っても、一生末生まっしょう
、わけの分からない良人ではある ──。 一体こんな効か
い性しょう なしの男の、どこがよくて、恋したり、二十何年も、貧乏を契ちぎ
って来たのか。あのころの、男の見る眼の、自分の幼稚さまでが、うらめしくなる。 ふた言めには、学問学問と、まるで机の虫みたい。 それも、若いことはまだ、
「いまに、うちの人も、きっと偉い医博士になり、妻の自分も、腕木門のある家から輿こし
に乗って出るくらいにはなれるだろう」 と、内助ないじょ
の張り合いも持っていたが、とんでもない、年をとればとるほど、出世の道などは、まるでそっち退の
け。 立身の緒いとぐち
なら、ずいぶん、貴人のお迎えもあったのに、牛飼町の貧乏人ばかり診み
て歩いたり、戦いくさ のちまたから、路傍の捨て子や、宿なし子を集めて来たりして、自分は飢えの余り、おかしな物を食べ、ヘドを吐いて、寝こんでしまったり・・・・。 この人の頭には、貧乏人への同情は、いっぱいあっても、女房子などは、あるのかないのか判らない。 木曾討ち入りの時だって、そうだった。 都は乱脈、地獄の闇だと言って
── この洛外へ移ったはよいが、それも身の安全のためではなく、親のない浮浪児を、何十人も拾って来て、 「── 子どもたちに罪はないのだ。こうして、せめて子どもらを、よく育てておけば、自然、次の世は、少しは、よくなってくれるだろう」
なんて、途方もない遠い先の ── 自分たち夫婦が、しょせん、生きていない先の世までを考えて ── 何がおもしろいのか、このわたくしや、ほんとの子には、どれほど、よけいなみじめを舐な
めさせて来たことか。 あげくにまた、そのたくさんな餓鬼の子の養いを、わたくしひとりに負わせて、自分は 「── 堀川どののご懇請こんせい
、もだし難く」 とかいって、陣医のお役をひきうけ、屋島、壇ノ浦の遠くまで行ってしまい、その間、便り一つ、妻へよこしたことはない。 そして、やっと去年の冬、帰って来たと思えば、その日からまた、机の虫だ。 もっとも、良人おっと
にすれば、この洛外広沢の疎開小屋へ、久しぶりに帰った見た日、がっかりして、口もきけなかったのは、むりもない。 良人の留守の間に、ここにいた餓鬼の子たちは、小屋の巣をきらって、みんな虻あぶ
や蜂はち みたいに、元のちまたへ、飛び去ってしまったのだから。 なぜかって、留守中、女のわたくしだけと見て、みな小ばかにし、手に負えたものではない。 どうしようもなかったのだ。 |
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