〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/26 (土) 古 女 房 (二)

「じゃあ、わたくしは知りませんよ。わかりましたね」
「何がさ。しつこいな」
「盗まれたお金の話じゃsりませんか。ちょっと起って、納屋を、見ても下さらないで」
「あきらめるしかないもの」
「こんなことなら、いっそ、暮らしの方へ、少しでもつか っておいたら、どんなに、わたくしも助かっていたか知れやしない」
「愚痴はよそう。金は金、たれかの手で、何かにつかわれているだろうよ。・・・・さ、あっちへ行っておくれ、あっちへ、あっちへ」
麻鳥はまた、机の上に頬づえを乗せた。そして、むずかしい漢書へ眼をさらし始めると、もう何を言っても、見向きはしない。
「・・・・ひとを、はえ でも追うように」
意地になって、蓬は、良人おっと の背骨を相手に、まだ、すわりこんでいる。
なんていう人だろう、この人という人は。
連れ添っても、連れ添っても、一生末生まっしょう 、わけの分からない良人ではある ──。
一体こんなしょう なしの男の、どこがよくて、恋したり、二十何年も、貧乏をちぎ って来たのか。あのころの、男の見る眼の、自分の幼稚さまでが、うらめしくなる。
ふた言めには、学問学問と、まるで机の虫みたい。
それも、若いことはまだ、 「いまに、うちの人も、きっと偉い医博士になり、妻の自分も、腕木門のある家から輿こし に乗って出るくらいにはなれるだろう」 と、内助ないじょ の張り合いも持っていたが、とんでもない、年をとればとるほど、出世の道などは、まるでそっち退 け。
立身のいとぐち なら、ずいぶん、貴人のお迎えもあったのに、牛飼町の貧乏人ばかり て歩いたり、いくさ のちまたから、路傍の捨て子や、宿なし子を集めて来たりして、自分は飢えの余り、おかしな物を食べ、ヘドを吐いて、寝こんでしまったり・・・・。
この人の頭には、貧乏人への同情は、いっぱいあっても、女房子などは、あるのかないのか判らない。
木曾討ち入りの時だって、そうだった。
都は乱脈、地獄の闇だと言って ── この洛外へ移ったはよいが、それも身の安全のためではなく、親のない浮浪児を、何十人も拾って来て、 「── 子どもたちに罪はないのだ。こうして、せめて子どもらを、よく育てておけば、自然、次の世は、少しは、よくなってくれるだろう」 なんて、途方もない遠い先の ── 自分たち夫婦が、しょせん、生きていない先の世までを考えて ── 何がおもしろいのか、このわたくしや、ほんとの子には、どれほど、よけいなみじめを めさせて来たことか。
あげくにまた、そのたくさんな餓鬼の子の養いを、わたくしひとりに負わせて、自分は 「── 堀川どののご懇請こんせい 、もだし難く」 とかいって、陣医のお役をひきうけ、屋島、壇ノ浦の遠くまで行ってしまい、その間、便り一つ、妻へよこしたことはない。
そして、やっと去年の冬、帰って来たと思えば、その日からまた、机の虫だ。
もっとも、良人おっと にすれば、この洛外広沢の疎開小屋へ、久しぶりに帰った見た日、がっかりして、口もきけなかったのは、むりもない。
良人の留守の間に、ここにいた餓鬼の子たちは、小屋の巣をきらって、みんなあぶはち みたいに、元のちまたへ、飛び去ってしまったのだから。
なぜかって、留守中、女のわたくしだけと見て、みな小ばかにし、手に負えたものではない。
どうしようもなかったのだ。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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