〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/26 (土) 古 女 房 (一)

「あなた・・・・。あなたってば。つんぼ じゃないんでしょう、あなたは」
よもぎ も、いつか四十を越えると、どこの古女房とも違わない、型通りな古女房となっていた。
良人おっと麻鳥あさとり のたまらない顰蹙ひんしゅく は、常にその語感からも来るものらしい。いちいち気を突っつかれていては、自分が助からないのである。わざと麻痺まひ に努め、これも世間にザラな古亭主の横顔を、きめ込んでいた。
「・・・・ち、うるさい。読書の間ぐらいは、 っておいてくれないかなあ」
「うるさければ、返辞をなさいな」
「この通り、返辞はしているではないか。なんだ、用とは」
「ちょっと、来てみてくださいよ」
「どこへ」
「いま、納屋なや へお漬物つけもの を出しに入ったら、大きな穴が掘られているんですよ。納屋の地べたに」
「もぐらだろう。もぐらならどこでも掘るさ」
「あなたじゃないんですか。下手人げしゅにんは」
「知らん。わしは納屋へなぞ入ったこともない」
「じゃあ、たいへんだ。あなたでなければ盗人ときまっている。去年こぞ の冬、堀川の判官さまが、都をお立ち退 きのさい、長い間、陣医として、よう勤めてくれたと、沙金さきん 一包みを賜わったでしょう」
「それは、おまえの手に、そっくり預けておいたろう」
「ですからさ。お部屋へおいても、自体忘れっぽいあなただし、年暮くれ はなお物騒だしと、考えあぐねて、納屋の土に けておいたんですよ。それが、つぼ だけで、中身なかみ くなっているじゃありませんか」
「失くなった物はしようがない。たれかが ぎつけたものだろう」
「冗談じゃありませんよ。あれだけのお金、一生かかったって、二度と見ることも出来ないほどな物でしょう。ま、来て見てくださいな、ああ、どうしよう」
「行って見たって始まるまい。盗まれた物が返るわけもなしさ」
「ほんとに、あなたが持ち出したのじゃないんですね。正直にいってくださいよ、正直に」
「ばかも休み休み言いなさい。なんでわしがそんな真似まね をするか」
いわれてみればそれに違いない。良人は、お金を拝領して来た時でも、金の量目をはか るでもなく、 「これは、わたくし事につか ってはならぬ。いつか時を見て、貧しい人たちのために費うのだから仕舞っておけ」 と、自分へ手渡したきり、どこへ措いたとも、ついぞたず ねもしない人だった。
よもぎ にすれば、もとよりの貧乏世帯、そのうちの少々でも、暮らしにまわしたさはやまやまだったが、良人の律義りちぎ が許すはずもなし、何よりはまた、まもなく義経の大物だいもつうら 遭難という世の騒ぎが起こり、この小屋へも、東国兵がやって来て、
「なんじら夫婦は、判官どのより、格別お目をかけられていた者の由。もしや由縁ゆかり を頼って、堀川の身内の者が、これへ頼って来てはおらぬか」
と、朝に夕に、うるさい詮議せんぎ 立てだった。
その嫌疑けんぎ では、麻鳥も、たびたび出頭を命ぜられたほどだったが、六波羅将士の内には、かつて壇ノ浦で、麻鳥の医手にかかった者もあり、まず事なきは得たものの、蓬は、もし拝領の金を見つけられてはと、あわててそのおり、納屋の土中に深く埋け込み、漬物桶つけものおけ やら雑具などを上にかぶせて、いつか、それを忘れるほど、日は過ぎていたのである。
いや実は、そんな顧慮もしていられない心配事が、またまた、内輪に起こってもいたのだった。
というのは、ある夜、ここを頼って来た主従三名の男女がある。それは ── 和泉いずみ御陵守みさぎもりおさかく まわれて、久しいこと療養のあげく、田舎娘に仕立てられて、吾野あがのの 余次郎、渡辺つがう の二人に守られて来たきたかた の河越殿 (百合野) であった。
夫婦は仰天した。
ここは危ない。わざわざ、追捕ついぶ の網の中へ、われから入って来たようなもの。
でも、夫婦は心をあわ せて、誠意を見せてはいたが、余次郎やつがう の考えでも、しょせん長居は危険と知り、再び、御方を牛の背に乗せて、ただ、
「── ひとまず、木曾路へ」
とのみ、言い残して、立ち去った。
木曾には、河越氏の縁家がある。百合野の兄河越小太郎も、堀川離散のさい、木曾へ行ったことかも知れない。という百合尾野の思案に、にわかな宿替えを、思い立ったものであろう。──何はともあれ、その人たちを送り出した後では、麻鳥夫婦も、ほっと、胸なで下ろしたことだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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