ひと口に、老獪
といっては、彼に対して、あるいは当らない言葉かも知れない。 北条時政の、六波羅在庁中評判は、極めてよかった。 上層からは 「── 政務を執と
るや、よく人心を治め、世の幹かん
たるに足る」 と評され、一般からも、 「思いのほか、苛酷でもなく、威張りもせぬ。物分りのよい北条殿」 と、だんだん懐なつ
かれていた。 これを見ても、彼は単なる地方的人物ではない。婿頼朝の輔佐には、大江広元のような中央的智識を配し、彼は、彼独自な才腕を撓た
めて、日ごろはわざと、表に立たずにいたのではあるまいか。 たまたま、こんど初めて、朝廷との重大な折衝に当って、その風貌ふうぼう
を大きく世上へ示したことから、堂上でも、彼への認識をあらたにし、 「なるほど、鎌倉どのも、政子夫人には、頭が上がらぬとか、よく言われておるが、その政子夫人の親だけのものはある。何せい、北条と申すは、容易ならぬ人物らしい」 と、言われ出していたのである。 素に彼はまた、今度の静の裁きにも、不用意には、臨まなかった。 当然、静のうわさは、 「判官どののお側女そばめ
が、六波羅の庁へ捕まって来たそうな」 と、都じゅうに拡がっている。 以前は、君立ち川の名花であったといい、また、舞の上手であるといい、さらには、義経の踪跡そうせき
も絶えて知れない今。── 庶民注視の的まと
だったのはいうまでもない。 「ゆるやかに、身の養生もさせ、心の落ち着いたところで吟味しよう。もともと、義経の与類よるい
といっても、科とが はかろい女房のことだ。いたわってやるがよい」 時政は、至極、寛大だった。 かの女は、牢ろう
部屋べや にこそ置かれたが、湯浴み化粧もゆるされ、衣服も新しいものを供された。 のみならず、数日後には、思いがけない人に訪われて、ただ二人きりの対面を許され、かの女は、その人を見るやいな、嬰児えいじ
のように、泣きくずれた。 洛北の東嵯峨ひがしさが
に、その後、ただひとりで暮していた母の磯いそ
ノ禅尼ぜんに であった。 「・・・・おかあさん」 しがみついて、ただ、身を揉むばかり、咽むせ
んでしまう静であった。たとえば、迷はぐ
れ迷はぐ れて疲れ果てた子が、闇の中に、ふとわが家の灯を見つけたような慟哭どうこく
だった。 「ああ、お窶やつ
れだこと、静よ、もうお泣きでない。ようまあ、無事で・・・・」 母の禅尼にしてみれば、死んだ子が、生き返って来たようなものである。ともに泣いてはいても、むしろ、うれし涙といってよいものだった。 「のう静。もう何事も、宿世すくせ
の約束と、あきらめたがよい。北条殿も、この媼おうな
へ、懇ねんご ろに、お諭さと
し給うて、いわれたげな。── 媼おうな
よ。むすめの一命は、わしがきっと、助けて取らせる。案じぬがよいと。・・・・なんと、ありがたいお言葉であろう。余りの嘆いて、このうえ体をそこねぬがよい」 「・・・・・・」 「過ぎた日は、夢を忘れ、ただ体を大事に、気を取り直して給た
も。・・・・そして、御吟味のあったせつには、もう何事も、つつみ隠さず、知る限りのことを、北条殿へ申し上げてしもうての・・・・。のう、静」 静は、涙のあふれが、急にどこかで、止まる気がした。 母の気持、母の願い、それち、自分の一念とでは、違いがあった。その距離を知ったとたんに、涙もとまり、べつな孤独が、かの女を一そう淋しい子にさせていたのであった。 でも、かの女は、 「・・・はい」 と、唇くち
だけでは言って、唇くちびる を噛んだ。 得心してくれたかと思い、母の禅尼は、うれし涙をふき直した。 そして、言うには。 ──
これから先は、そなたも一つ家に暮せよう。また、白河にいたころのように、この媼おうな
は、娘たちを集めて、鼓でも教えましょう。そなたも、いつまで、きなきなせず、気ばらし半分、元の君立ち川の灯に、返り咲きしてみるのもよいではないか。世間の口も七十五日。なにも、堀川どのの御側室に、こだわっれいることはない。かの君の御先途を見とどけようなどと念じても、しょせん、こうなっては無理、切れた糸。──
それよりは、何もかも御吟味の日に申し上げて、北条殿のお情けをありがたいと思い、この老母をも、どうぞ、安心させて給われ。 磯ノ禅尼は、やがて帰った。 ──
その母の後ろ姿を、今日ほど、子として、浅ましく思ったことはない。静は、親をさげすむ自分の心が悲しくて、またわれながら、いじらしくて、後では、ひとり涙に沈んでしまった。
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