その後、吉野の静は、蔵王堂本房の衆座に据
えられ、あらためて、執行しゅぎょう
たちから、 「判官どのとは、どこで別れてぞ。どういい交わして、戻られしか」 など、さんざん、しつこい吟味ぎんみ
に責められたことに違いない。 が、どう問われても、答えは、ひとつだろう。女人禁制の大峰口で、ぜひなく、別れたという以外、あとはただ泣き入るしかないかの女であったろうことも、察しられる。 それにしては、北条時政が、怪しいとにらんだ通り、以後半月も、なんで、蔵王堂に隠したまま、訴えもせず、おいていたのか。 静には、もちろん分からない事情であったが、蔵王堂内部にも、同情樋同情の両論があり、かの女の身の処分を繞めぐ
って、 「放つべし、放つべし。せっかく、仏の御廂みひさし
に抱かれた者を」 という者や、 「いやいや、事現れなば、後日の難、人の妾しょう
などに、一山の運命など賭か けなどしてよいものか」 と、つよい反対もあったりして、ついに、対立に日を過ごしていたものだった。 しかし、ふもとの宇智うじ
、宇陀うだ 、市来いちき
の三郡は、由来大和源氏の淵叢えんそう
である。この地方からは、かの新宮十郎行家の部下に馳は
せ加わった武士も少なくないという見地から、たちまち、追捕の手がまわっていた。 当然、山上の吉野へも、いつ捜査の手が伸びないとも限らない。いやそれはすでに迫っていた。今は一婦女子に、憐あわ
れをかけている場合でもないと、にわかに、都へ僧をやって、訴え出たものらしい。 日ならずして、ここへ臨んだ北条時定と六浦義兼たちは、 「一々の申し状、まったく、それに相違ないか」 と、丹念たんねん
に、個々の者から、口書を取り集めた。 また、義経主従が落ちたという大峰入りの峰道も実地に踏んだ。 さらに、佐藤忠信、堀弥太郎の二臣が、主の身代わりに立って、逆に、寄手の横川覚範を討ち、その両名も、山外へ逃亡したきり行方知れず
── という始末をも、仔細しさい
に調べ上げたうえ、 「なぜ、都へ人を走らせるまでもなく、近郡にある追捕の将に、逸早いちはや
く、通じなかったか。追っての沙汰を、慎んで待つがよかろう」 今は、静の身を、都へ差し立てて帰るのが、彼らの一番な任務であった。で、不気味な一言をあとへ吐き捨てて、軍馬の背へ、蓑みの
ぐるみにした靜を乗せて、たちまち、吉野の雪を踏み荒らして山を降りて行った。 ふもとの吉野川を渡って、南大和の人里へかかると、時定は、何思ったか、 「静の着たる蓑笠みのかさ
を引ひ っ剥ぱ
いで、姿、面おもて を、曝さら
させろ」 と、部下へ命じた。 そして、田舎町や、部落の道へかかるたびに、兵たちをして、わざと大声で喚わめ
かせた。 「これは元、都で名うての白拍子しらびょうし
よ」 「後、堀川に囲われた、判官どのの想おも
い女もの 」 「吉野の奥で、判官どのと逢あい
びきを重ね、雪の中へ捨てられて、今は、都へ引かれ行く途中ぞ。その静しずか
御前ごぜ とは、この女性ぞ」 ──
こう触れ歩いたから、たちまちうわさが遠近にひろがって、義経主従も、その辱に耐えず、あるいは、静を奪い返さんとして、途上に現れて来るかも知れない。 という時定の計はかり
だったが、三日ほどの道中、ついに何の異変も見えず仕舞いで終わった。そして、みぞれ空の十二月八日の夕、一行の兵馬は、六波羅口に入った。 ただちに、北条時政へ、旨を達し、やがて引き下ろされた静の身は、庁の端屋はしや
に閉じ込められて、その夜は、きびしい監視に中におかれた。 |