〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/19 (土) ゆき  つづみ (三)

「なに、白拍子かよ。白拍子なら、ちょうどよいわ。今日は賽日さいじつ舞殿ぶでん へ上げて、法楽ほうらく させい」
たれかが言い出した、
法楽とは、神前の舞を献じることである。
巫女みこ の舞技では、めずらしくない。けれど、はぐ れて来た小雀が、都振りを舞ったら、これは見ものぞと、みな興がった。 「── 舞え、舞え」 と、静をうながして、責めたてる。やんやと、はやしつつ追い立てる。
「・・・・御無態ごむたい でござりまする」
静はただ、顔をかたくして、詫びぬいた。
「何が、無態」
「白拍子が、舞えぬ道理はあるまい」
舞衣まいぎぬ もある、扇もある。さ、舞殿へ歩め」
かばこそだ。かの女が、身に持つ秘密と、衆人の中のはじ に耐えながら、おろおろすればするほど、その様を見て、人びとの野性は、よろこぶのだった。
かの女は、身の疲れを訴えて、なお、地の肌にしがみついていた。── と、かなたの廊を通りかけた一老僧が、ふと足を戻して来て、
さわ がしい。何を群れているのか」
と、そこをのぞいた。
蔵王堂ざおうどう の治部ノ法印であった。
法印の姿を見ると、山僧たちは、急に、真面目くさった。あらましを聞いただけで、治部ノ法印は、何か仔細しさい がある者と、察したに違いない。
「もってのほかじゃ」
と、そこらの若大衆を、白い眉毛まゆげ でしかりつけた。
「法楽とは、遊びではない。神事と酒盛りの座興とは事違うぞ。この女子は、蔵王堂へひいて行け。不審もあるゆえ、とくと、本坊で調べてみる」
そこから、蔵王堂は遠くない。静は、堂衆たちに守られて、蔵王堂権檐の一房へすぐ移された。
ほっと、一時の難は、のがれ得た気がしたものの、ここは、金峰山きんぷせん の総本堂である。
仁王門、七十二間の廻廊かいろう金堂こんどう 、大塔などをよう す法城は、さらに、静の心を、すくませた。かの女は、仏の手を感じるよりは、鉄のおり に閉じ込められた心地であった。
どうしたのか、その夜も、次の日も、調べはなかった。
ただかの女にも、山僧とおなじかゆ が供せられ、自然、疲れた体は、われにもなく、眠り落ちていたことだった。
けれど、まどろむと、すぐ夢を見た。
うや、夢でもない、うつつ でもない。異常な戦慄せんりつ からまだ落ち着いていないかの女の魂と呼べるようなものは、夜すがら、そのどっちにも呼吸していたのである。
そして、ありありと、真白な雪の中を、なお、良人おっと と一しょに、女人禁制の峰へ踏み上って行く自分を ていた。── と思えば、たちまち、香煙にくしんだ鉄のふすま の中に身を横たえている自分に返っている。そのとき、かの女は、声を発して、泣いた。蔵王ざおう 権現の伽藍がらん れよとすすり泣いた。けれど、仏の御手みて は垂れない。近づく人の跫音あしおと もしない 。どこかの梵鐘ぼんしょう が、遠くで、おりに答えるだけだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next