後に、思い合わせると。 ちょうど、かの女がここで輾転
と、こうして、悶もだ え明かしていた夜ごろか。 ──
一方、静と別れて、大峰の峰入り道を落ちて行った義経は、途中、横川の覚範が指揮する僧兵にはばまれて、行くも退くも出来ない窮地に落ちていた。 すでに、主従八騎、 「これまで」 の切羽せっぱ
にまで追いつめられ、武蔵坊、堀弥太郎、伊豆有綱などを先頭に、斬って出た結果、一たんは、二百余の悪僧どもを、追いしりぞけることを得たが、なにしろ、地の利にくわしい彼らである。歩けば後ろを尾つ
け、とどまれば、前へ出て来る。 ついに、夜にはいってしまい、なお、立ち往生の態てい
だった。 忠信が、一策を献じて、義経の名を借り、身代わりとなって、さいごの殿軍しんがり
を試みようといい出たのは、この時だった。 「兄の継信つぐのぶ
は、屋島のおり、君の矢おもtrに立って相果て、今また、兄に倣なろ
うて、この弟が、さいごの働きをお見せ申しまする。兄弟して、かばかりの宿縁を、君へ結びまいらせたのを知れば、ふるさとの老母も、満足してくれましょう」 こう、今生の別れを告げて、忠信はまた、弁慶そのほかの友輩ともばら
へ、 「この先とも、殿のお守りを、頼み申すぞ。忠信が一戦を支えている間に、一刻も早く、奥をさして落ちのびられよ」 と、言い捨てるや否、後ろへ引っ返して行ったのである。 「やあ待て、お身一人では」 「堀弥太郎も、彼につづいた。そして、ともに敵の潜ひそ
む谷下がりの花矢倉まで駆け出して行き、一堂の楼門へ登って、呼ばわった。 「見ずや、敵の悪僧ばら、判官義経はここにあるぞ。義経はここにあるものを」 こう呼ばわって、むらがる僧兵を、近々と、寄せつけ、 「横川の覚範はどこぞ。見参せん。──
義経が前に出よ」 と、言った。 「おうっ、吐ほざ
ざいたな」 それらしい大法師が、勇躍して、すぐ楼門の下に見えた。── だが、忠信が引き絞って待っていたただ一矢の下に、覚範は、くわっと、大きな口と眼まなこ
を、楼上へ向けて見せただけで、仰向けにたおれていた。 山鳴りがした。 咄嗟とっさ
に、楼門の石段を駆け下りて来た忠信と弥太郎が、群鴉ぐんあ
に似た僧兵の中へ、捨て身で、斬き
って出たのである。 勝敗などと言える互角な戦いではない。奇策の功に過ぎなかった。しかし、野望の下に動いた一部山僧側の首領覚範が、余りに相手を軽視して、手もなく討たれたのは事実である。また、首謀を失った僧兵たちが、一挙に崩れ立ったのも、いうまでもない。 そして、皮肉なことには。 死ぬべく、踏みとどまった佐藤四郎兵衛忠信と、堀弥太郎の二人は、囲みを破って、ついに一命を完まっと
うし、どこかへ、逃に げおおせてしまったのである。──
いかに、僧兵側がもろかったか、また、義経を迫害した人数も、じつは、吉野大衆の内でも、ごく一部の動きに過ぎなかったかが、同時に分かる。 さらに、奥へ落ちのびた義経は、その後、金精明神こんしょうみょうじんの塔に隠れているうち、そこをも襲撃して来た山僧のために、塔を蹴け
破って逃げたという山の伝説がある。今も “蹴抜けの塔” の地名が、残っているとか。 しかし、そこはもう、大峰、大台ヶ原など、いわゆる修験道場の神秘境とよばれ、春も夏も、雲や霧ばかりが通るにすぎない人界の外である。 以後の義経の足跡も、その雲や霧の中だった。杳よう
として、それから先の彼の姿とその出没は、世人のたれも、つかむことが出来なかった。 |