〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/20 (日) ゆき  つづみ (四)

後に、思い合わせると。
ちょうど、かの女がここで輾転てんてん と、こうして、もだ え明かしていた夜ごろか。
── 一方、静と別れて、大峰の峰入り道を落ちて行った義経は、途中、横川の覚範が指揮する僧兵にはばまれて、行くも退くも出来ない窮地に落ちていた。
すでに、主従八騎、
「これまで」
切羽せっぱ にまで追いつめられ、武蔵坊、堀弥太郎、伊豆有綱などを先頭に、斬って出た結果、一たんは、二百余の悪僧どもを、追いしりぞけることを得たが、なにしろ、地の利にくわしい彼らである。歩けば後ろを け、とどまれば、前へ出て来る。
ついに、夜にはいってしまい、なお、立ち往生のてい だった。
忠信が、一策を献じて、義経の名を借り、身代わりとなって、さいごの殿軍しんがり を試みようといい出たのは、この時だった。
「兄の継信つぐのぶ は、屋島のおり、君の矢おもtrに立って相果て、今また、兄になろ うて、この弟が、さいごの働きをお見せ申しまする。兄弟して、かばかりの宿縁を、君へ結びまいらせたのを知れば、ふるさとの老母も、満足してくれましょう」
こう、今生の別れを告げて、忠信はまた、弁慶そのほかの友輩ともばら へ、
「この先とも、殿のお守りを、頼み申すぞ。忠信が一戦を支えている間に、一刻も早く、奥をさして落ちのびられよ」
と、言い捨てるや否、後ろへ引っ返して行ったのである。
「やあ待て、お身一人では」
「堀弥太郎も、彼につづいた。そして、ともに敵のひそ む谷下がりの花矢倉まで駆け出して行き、一堂の楼門へ登って、呼ばわった。
「見ずや、敵の悪僧ばら、判官義経はここにあるぞ。義経はここにあるものを」
こう呼ばわって、むらがる僧兵を、近々と、寄せつけ、
「横川の覚範はどこぞ。見参せん。── 義経が前に出よ」
と、言った。
「おうっ、ほざ ざいたな」
それらしい大法師が、勇躍して、すぐ楼門の下に見えた。── だが、忠信が引き絞って待っていたただ一矢の下に、覚範は、くわっと、大きな口とまなこ を、楼上へ向けて見せただけで、仰向けにたおれていた。
山鳴りがした。
咄嗟とっさ に、楼門の石段を駆け下りて来た忠信と弥太郎が、群鴉ぐんあ に似た僧兵の中へ、捨て身で、 って出たのである。
勝敗などと言える互角な戦いではない。奇策の功に過ぎなかった。しかし、野望の下に動いた一部山僧側の首領覚範が、余りに相手を軽視して、手もなく討たれたのは事実である。また、首謀を失った僧兵たちが、一挙に崩れ立ったのも、いうまでもない。
そして、皮肉なことには。
死ぬべく、踏みとどまった佐藤四郎兵衛忠信と、堀弥太郎の二人は、囲みを破って、ついに一命をまっと うし、どこかへ、 げおおせてしまったのである。── いかに、僧兵側がもろかったか、また、義経を迫害した人数も、じつは、吉野大衆の内でも、ごく一部の動きに過ぎなかったかが、同時に分かる。
さらに、奥へ落ちのびた義経は、その後、金精明神こんしょうみょうじんの塔に隠れているうち、そこをも襲撃して来た山僧のために、塔を 破って逃げたという山の伝説がある。今も “蹴抜けの塔” の地名が、残っているとか。
しかし、そこはもう、大峰、大台ヶ原など、いわゆる修験道場の神秘境とよばれ、春も夏も、雲や霧ばかりが通るにすぎない人界の外である。
以後の義経の足跡も、その雲や霧の中だった。よう として、それから先の彼の姿とその出没は、世人のたれも、つかむことが出来なかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ