〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/19 (土) ゆき  つづみ (一)

どこで道を迷ってしまったのか。
静は、半日ほども、谷道を、さまよっていた。
義経と別れてから間もなく、供の雑色ぞうしき たちが、
「元の山街道を戻っては、夜明けとともに、子守の神主かんぬし も申していた悪僧どもの眼にかかりましょうず」
「なるべく、人目少ない間道を取って、参らぬことには」
「馬は捨てて、いっそ、おひろ いなされませ。杖一つを力に、お荷物などは、てまえどもが持ちますれば」
と、口をそろえて言うがまま、彼らの足まかせに、みちび かれていたのである。
ところが、中院谷ちゅういんだに とやらを過ぎると、彼らは、再び、
「ようやく、夜明けも近う覚えまする。山には、悪僧ばかりが、いるわけでもございませぬ。どこぞ、慈悲ある御堂を訪ねて、あさのかて やら、おん身のいこ いを、頼み入りて参りまする。── また、あわよくば、都へ帰るよい方便もないとは限りませぬで」
と、静ひとりを、小さなほこら の破れ縁において、四人の雑色ぞうしき が四人とも、どこかえ行ってしまったのだ。
正直に、彼らの帰りを、静は根気こんき よく待っていたのである。
もともと、彼らは、義経の股肱ここう の臣というほどな者ではない。静の持物も、預っていたし、欲と、追捕ついぶこわ さとが、今を、よい逃亡の機会と思わせたに違いない。
静は、やっと、だま されたことに気づいた。ぜひなく、ひとりで道をさがし求めた。 えは迫るし、体は綿のように疲れてくる。果ては、寒さも、時間の経過も、まったく意識にかすんで、恍惚こうこつ に似た喪心そうしん と、よろめきを続けていた。
すると、どこかで、音楽が聞こえる。かね や笛や鼓であった。
彼女は、はっと、心を ました。
以前、白拍子であった彼女は、人いちばい、笛や鼓の音に多感であった。急に、どこか活き活きとして、その音を頼りに、一つの高所へ、登って行った。
勝手神社の社殿や廊が見え出した。
華麗な門へ、向かい合うと、もう、往き来のたくさんな人びとと、すれちがった。お賽日さいじつ とみえ、山里の男女やわらべ も、皆、きれいな身なりをしていた。
そして、どの顔も、怪しむごとく、静の姿を振り向いて行く。
静は、玉垣たまがき の前にすわって、四柱よはしら の神へぬかずいた。一つの祭神は、木乃花咲耶媛このはなさくやひめ であった。かの女は思わず、胸の前で、かたく掌を合わせ、
「── 女神めがみ におわすならば、女の心は、わけて、ようお分かりでございましょう。何とぞ、わがつま の先途を、お守り下さいまし、再び会う日を、ふたりのうえに、おめぐみ給わりませ」
と、一念になった。
真っ暗な胸を突き破って、自己の祈りが、何かへ、こだま して届くかのような心地にやがてくるまれて来る。とめどない涙が、謙虚な人の子の顔を洗う。── そうしている間が救いなのであった。静は、もうどこへも起ちたくなかった。このまま、祈りつづけていたかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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