静は、この時、初めてほんとの心が決まった。盲目的な情火もべつな理性も、ともに、氷のようになっていた。文彦
の前だからではなく、涙も出ず、取り乱しもしなかった。 そっと、ささやくような小声で、 「・・・・静は、ここでお別れいたしまする。・・・・殿を、お見送り申したうえ、山を降りて、ひとり都へ戻りまする」 と、義経へ言った。 義経は、うなずいて見せた。何も言わなかった。静が、運命の前に、やっと素直になれたとき、逆に、彼の胸は狂炎に変わっていた。一語でもその火の想いをもらせないほどにである。 で、やや急に、彼は、子守ノ宮を立ち出たのだった。文彦へは、ねんごろに礼をのべ、教えられるまでもない山坂道の一すじを、南へ向かった。そして、五、六町行くと、道の端に、土壇どだん
が見え、結界けっかい の杭が、立っていた。 不許女人入山 雪まだらな文字までが、何か、恐ろしげにそう読まれる。静は、馬の背を降りて、 「・・・・では、わが良人つま
さま、静はここで」 と、雪の上に、小ひざを折った。そして、そう言うなり、じつは、義経の姿もよくは見えない、いっぱいな涙の眼になってしまった。 郎党たちは、わざと、やや先へ行き過ぎて、佇たたず
んでいる。静の供の雑色たちも、義経が馬を降りたのを見ると、みな、遠くへ退いて、あらぬ方へ面を反そ
らしていた。 「静。・・・・」 と、義経は、その嫋肩なよがた
を片手に寄せて 「いっそ、ここの結界は、あきらめよい、別れよい。もう、ぜひもないことだ。・・・・、気をつけて、都へ行けよ」 「はい。・・・・お気づかいくださいますな。もう、あのような、わがままは思いませぬ。ただ、御先途の行くてだけが、気がかりでございますが」 「なんで、義経とて、やみやみこのまま朽ちるものか、春ともならば、きっと都へ忍び出る」 「それのみを、ただ愉しみに・・・・」 「おお待っていよ。またの日もきっとある。お互い生き抜くための、ここの別れぞ。身を愛いと
しんで、病などに寝つくなよ」 どれほどにしても足りない思いで、手に力をこめて言った。彼のも、静のも、頬の肌とは感じ合えないくらい凍こご
えていた。けれど涙は熱かった。息も熱かった。 「さ。・・・・夜開けぬ間に」 義経は、静の手へ、何か重たげな小さい物を持たせた。わずかな沙金さきん
と、形見の鏡であった。 われとわが心を断ち切るように、彼は、かなたに佇む郎党たちの群れの中へ、その影を、たちまち隠した。 道は、山蔭に添って、曲がっている。 静の眸め
は、すぐ一切を、失っていた。けれど、その藁沓わらぐつ
の底が、氷りついてしまったように、動くのも忘れていた。いつまでも、見える人を見ているような眸であった。 |