〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/14 (月) にょ にん けつ かい (二)

もう吉野の山上さえ、はるか後方の、低い一頂上に振り返られる。── そして、こんな所にも、人が住むのかと怪しまれるほど山極やまぎわ まった所に、また、まばらな民家が見え、道のつき当たりには小高い石段と、社殿の屋根のカツオ木が仰がれた。
「おう、あのあけ の鳥居が、子守こもり御社みやしろ でどざいましょうず」
「さては、文彦あやひこ の住む分水みくまりみね とかはそこか・・・・ ぞ」
と、義経は、郎党たちを見て、
「あれなる社家の内を、おとの うてみよ」
と、言った。
馬を捨てて二、三の影が石段を駆け登って行った。ほどなく、上に人影が見え、幾ツかの灯影もゆらいで、義経たちを出迎えた。
神職の文彦あやひこ は、あらかじめ、義経がここへ来ることを、予期していた。蔵王ざおう 本坊の取沙汰を、彼も、耳にしてないわけはない。
夜も遅かったのに、大炉おおろ には赤々とほだ べ、台所でも、かまど大鍋おおなべ で何やら暖かな物を煮炊にた きしつつ、待ちうけていた様子に見える。
この意外な、ねぎらいに会って、人びとは、だん を取り、腹をみたし、みな蘇生そせい の思いをしたことだった。
けれど、文彦は、どこやら、気はすまぬらしい面持ちで、
「じつは、ここはもはや、御一同にとって、安全な所ではなくなりました。── 御休憩をとられたうえは、一刻も早く、さらに奥へと、お落ち退きありますように」
と、やがて、言いぬくそうに、義経へ言う。
彼の言によると。
蔵王堂における論議では、義経の入山をこば む、ということで一決を見たわけだが、裏面ではなお、過激な一部の衆徒が、横川の覚範かくはん を首領とし、しきりに、動き出している形跡がある。
彼らは、あくまで、義経を捕えるか、首にするか、ふぁと言っている。鎌倉どのが、天下に令して、求めてやまぬものが、「この吉野へ迷い込んだとは、なんたる僥倖ぎょうこう か。
みすみす、それを逃しては、逆に、後日おとがめたるは必定だ。しかも季節は、四岳谷々、雪に封じられた真冬。 「── 判官の素っ首、手につば して見るべし」 と数百の僧兵は、すでに追跡にかかっているとのこと。
「ゆめ、御油断なりません」
と、文彦、言うのであった。
覚悟の前である。もとより義経以下、たれもあわてはしなかった。
けれど、ここでまた、はたと、むごい運命のとびら に拒まれねばならぬ一人がある。それは、静であった。
ここから先の道は、いわゆる大峰の結界けっかい である。えん小角しょうかく このかた、行者たる山伏たちの秘境、山岳しゅう の道場として、数百年来、女人禁制の鉄則が守られており、まだ破られたためし はないという。
「たとえ、いかなる御事情によるとも、女性にょしょう のおん身では、立ち入ること、かないませぬ。もし破らば、天人ともに怒るの御罰をうけ、吉野はおろか、那智、羽黒、白山、富士、御嶽、天下の優婆塞うばそく が呪いに会わねばなりません」
人びとへ向かって、そう言う文彦あやひこ の、罪もないその人までが、静のひとみには、冷酷無常な山の制度、そのもののように思われて、恨めしかった。
わっと、声をあげて、泣きたく思った。
だが、かの女とて、仏教や神道が、法律とか道徳などより、はるかに高い力と光を持っている時代の下に生まれた子であった。国禁を犯すも同様な、大それたとが には、はたと、心も閉じられてしまう。
雪千丈の谷も、白皚々はくがいがい な大峰も、女はそれを恐れはしない。── けれど必然、愛する人へかかるるい を思えば、盲目にはなりきれなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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