〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/14 (月) にょ にん けつ かい (一)

── もしや今日の別れが、これ限りの、この世の別れとなるのではないだろうか。
ふと、恐ろしい予感がした。虫の知らせといえぬこともない。静は、その一ときの、真っ暗な眼くるめきを、馬の背にうつ して、こら えようとは、したのである。
だがどんな理性も、そうなった女性の血の中では役立たなかった。
またの日の再会を信じて、義経のさと すがまま、泣きもせず吉水院きっすいいん を出たのだが、ものの一町とはへだ てぬうちに、半狂乱とも見えるその姿は、 「── わた良人つま 、わが良人つま 」 と、声かぎり、義経の後を追っていた。
吉野の奥へは、なお、うねりくねりの山坂が、幾曲りとも果て知れなかった。── たった今、別れた静を見送って、やがて黙々と、奥への道を急いでいた主従八騎は、
「あっ。・・・・たれか後ろから?」
と、馬をひかえて、振り返った。
それが、静だと分かるや、人びとは当惑をおもて に見せ、義経の胸には、またしても、煩悩ぼんのう雪崩なだれ が、音をたてていた。
「やあ、静ではないか。何しに、戻ってぞ。 きわけのないやつ」
寄せつけぬような声で、義経は烈しくしかった。が今は、それも耳に入らぬ静となっていた。
かの女は馬のまま、義経のひざへ取りすがって、
「仰せのまま、下山してと、存じましたが、この先、どう生き耐えてゆかれましょう。たとえ、こご え死のうと、いといません、お願いです、どんな艱苦かんく にも耐えまする。お連れ給わりませ。行ける所まで、わらわもともに」
必死のさせる言葉が、嗚咽おえつ の力をかりて、いくらでもあふれ出た。女が女像を権化しきった完全な姿でもある。呆気あっけ に取られつつも、郎党たちは、それを涙なしに見てはいられなかった。
「おろかな繰り言を」
今は、ただ二人きりの、巣籠すごも りのうち ではない。義経はいらだった。
「さても、そなたもまた、思いのほか、愚痴なやつかな。日ごろといえ、よう物事を聞き分ける女と思えばこそ、吉野へも連れたれ。この先は、山伏すら冬は踏まぬ雪の大岳たいがく 。何もまた、これ限りの別れではなし、春には、都へ忍び出て、必ず会わんと申すのに、それまでが、待てぬのか」
「なんの・・・・。きっとお会い出来るなれば、何年でも、耐えまするが」
「では、疑うてか。わしのことばを」
「いえ。・・・・いいえ。何かもう、これ限りのような心地がして」
「ばかな。生き抜くための別れぞと、昨日も、あれほど申したのに」
「でも、別れては、お互いの、明日の日も、どうなりますやら」
「ち、まだ分からぬか。── 帰れっ、 う下山せよ、静」
むしろ、自分の弱さへ、彼は、声をはげましたのだ。
だが、きずなを断つその思いが、無意識に、馬をまわしかけたので、すがっていた静の体は、あやうく馬と馬との間へ、まろび落ちそうになった。
「あな、おいたわし」
「無残、無残」
郎党たちは皆、見るに見かねて、義経へ、口をそろえて、こう、すすめた。
「しょせん、お名残は尽きまいものを、いっそ、お連れなされて、よい隠れ家を峰の奥にさがし、冬の に、先途の御思案を、お語らい合わされてはいかがでございますか」
義経は、先へ馬をすすめている。黙然と返辞もないのは、心ではそうして欲しい、許容の後ろ姿ではないか。郎党たちは、そう取って、馬の背に泣き崩れた静を口々に、励まして、
「いざ、いざ、殿のおあとへ」
「殿に遅れず、おつづきなされ」
ろ、前後を、いたわり囲みながら、再び山街道を、登り始めた。
その間に、雑色ぞうしき 四人も、追っかけて来て、静の馬の口輪を取った。奥へ進むほど、積雪は深く、谷々も白く埋められて、ただ平らかに見えるほどだが、月の光に てきった路表は、戞々かつかつ馬蹄ひづめ が鳴るほど氷っていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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