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もしや今日の別れが、これ限りの、この世の別れとなるのではないだろうか。 ふと、恐ろしい予感がした。虫の知らせといえぬこともない。静は、その一ときの、真っ暗な眼くるめきを、馬の背にうつ伏
して、怺こら えようとは、したのである。 だがどんな理性も、そうなった女性の血の中では役立たなかった。 またの日の再会を信じて、義経の諭さと
すがまま、泣きもせず吉水院きっすいいん
を出たのだが、ものの一町とは距へだ
てぬうちに、半狂乱とも見えるその姿は、 「── わた良人つま
、わが良人つま 」 と、声かぎり、義経の後を追っていた。 吉野の奥へは、なお、うねりくねりの山坂が、幾曲りとも果て知れなかった。──
たった今、別れた静を見送って、やがて黙々と、奥への道を急いでいた主従八騎は、 「あっ。・・・・たれか後ろから?」 と、馬をひかえて、振り返った。 それが、静だと分かるや、人びとは当惑を面おもて
に見せ、義経の胸には、またしても、煩悩ぼんのう
の雪崩なだれ が、音をたてていた。 「やあ、静ではないか。何しに、戻ってぞ。肯き
きわけのないやつ」 寄せつけぬような声で、義経は烈しくしかった。が今は、それも耳に入らぬ静となっていた。 かの女は馬のまま、義経のひざへ取りすがって、 「仰せのまま、下山してと、存じましたが、この先、どう生き耐えてゆかれましょう。たとえ、凍こご
え死のうと、いといません、お願いです、どんな艱苦かんく
にも耐えまする。お連れ給わりませ。行ける所まで、わらわもともに」 必死のさせる言葉が、嗚咽おえつ
の力をかりて、いくらでもあふれ出た。女が女像を権化しきった完全な姿でもある。呆気あっけ
に取られつつも、郎党たちは、それを涙なしに見てはいられなかった。 「おろかな繰り言を」 今は、ただ二人きりの、巣籠すごも
りの裡うち ではない。義経はいらだった。 「さても、そなたもまた、思いのほか、愚痴なやつかな。日ごろといえ、よう物事を聞き分ける女と思えばこそ、吉野へも連れたれ。この先は、山伏すら冬は踏まぬ雪の大岳たいがく
。何もまた、これ限りの別れではなし、春には、都へ忍び出て、必ず会わんと申すのに、それまでが、待てぬのか」 「なんの・・・・。きっとお会い出来るなれば、何年でも、耐えまするが」 「では、疑うてか。わしのことばを」 「いえ。・・・・いいえ。何かもう、これ限りのような心地がして」 「ばかな。生き抜くための別れぞと、昨日も、あれほど申したのに」 「でも、別れては、お互いの、明日の日も、どうなりますやら」 「ち、まだ分からぬか。──
帰れっ、疾と う下山せよ、静」 むしろ、自分の弱さへ、彼は、声をはげましたのだ。 だが、きずなを断つその思いが、無意識に、馬をまわしかけたので、すがっていた静の体は、あやうく馬と馬との間へ、まろび落ちそうになった。 「あな、おいたわし」 「無残、無残」 郎党たちは皆、見るに見かねて、義経へ、口をそろえて、こう、すすめた。 「しょせん、お名残は尽きまいものを、いっそ、お連れなされて、よい隠れ家を峰の奥にさがし、冬の間ま
に、先途の御思案を、お語らい合わされてはいかがでございますか」 義経は、先へ馬をすすめている。黙然と返辞もないのは、心ではそうして欲しい、許容の後ろ姿ではないか。郎党たちは、そう取って、馬の背に泣き崩れた静を口々に、励まして、 「いざ、いざ、殿のおあとへ」 「殿に遅れず、おつづきなされ」 ろ、前後を、いたわり囲みながら、再び山街道を、登り始めた。 その間に、雑色ぞうしき
四人も、追っかけて来て、静の馬の口輪を取った。奥へ進むほど、積雪は深く、谷々も白く埋められて、ただ平らかに見えるほどだが、月の光に凍い
てきった路表は、戞々かつかつ
と馬蹄ひづめ が鳴るほど氷っていた。 |