〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/14 (月)  てん じょう てん (三)

ほどなく、義経は、先に姿を見せて、
「弁慶、雑色ぞうしき ども四名は、静に添えて、ここから都へ立ち帰らすぞ。そのように、申しつけよ」
「あ。では、静さまは」
「武者を付けてやりたいが、人数はわずかだ。それにかえって、人目に立とう。追捕のやから も、ねら うのは義経のみ。よも途中で大事はあるまい」
「よう、静さまにも、おきき れでございましたなあ。先刻より、いかがあらんお心にやと、いずれも、胸を痛めておりましたが」
「足馴れた山伏どもすら、夏秋の峰入りには、けわ しさに悩むという吉野の奥、大峰の細道、しょせん、女性にょしょう の行けるこの先ではない。あまつさえ、雪」
「ならば、雑色どもには、さように申しつけておきましょう。静さまには、しばしお待ちを」
弁慶は、外へ降りて、木戸を出て行った。
主従、十一名のうち、七名は、股肱ここう の臣だが、名もない雑色といえる程度の家来が、四人 じっていた。
彼らは、静について、都へ帰れとの命を、むしろ、よろこんで受けた。── ひとり淋しげなのは、鷲ノ尾三郎で、
「静さま、静さま」
やがて、外へ出て来たかの女の姿を見るや、その前に、立ちふさがって、いつまでも動かなかった。率直に、別離を悲しんで、泣くのだった。
「なぜこれが、悲しくないのか。殿も、静さまも」
わっぱ の鷲ノ尾には、不審であるより、不服であった。静は、氷の花みたいに、ただ美しく、冷たく見える。殿も、泣いたお顔とは見うけられない。
ほかの面々は、はや騒然と、馬をひき合って、おのおの馬上となった。義経も乗る。静も、介添かいぞ えされて、くら へすがる。
すべて、十日ほど前に、ここへたどり着いたままな姿に返ったのだ。ただ、違っていたのは、おりふし、十六日の夜の月が、銀世界のてん にあって、昼より明るく、足もとの雪、四山の雪、すべて、すさ まじい光と、あお い陰影をおびていたことだった。
雪は、やんでいるが、月の面を、風花かざはな がたえずチラチラ掠掠かす めて舞う。吉水院から山街道の上へ出る。
門前町の屋根は、雪に埋もれ、灯のもれている軒端もない。── 静は、そこで義経と別れた。振り返り振り返り、半町、一町、いつかお互いは、もう見えなかった。
「・・・・ど、どうなされました、静さま」
雑色たちは、徒歩かち だった。
口輪をひいていた一人が、大声でそう言ったので、後から歩いていた三名も、びっくりして、かの女のくら の両側へ寄って来た。
とつぜん、静は、こま のたてがみへ、うつ伏していたのである。血でもお吐きになったのかと、彼らは、ぞっとした様子で、疑った。
それほど、かの女のかさうち に顔は、血の気がなかった。月の色とも、雪明りのせいとも、いいようがない。かすかに、肩をふるわせている。袖口を みしめて、必死に、何かに耐えようとするらしい容子はわかる。── 返辞がない。ただ、そうしたままなのである。
「どこか、にわかに、お体のさわりでもございますか。実生どのからいただいて来た薬が荷のうちにありますが」
「いえ」
静は、かさ を上げた。
そのまゆ は、いま来た道を、振り向いていた。まじろぎもせず、一すじの黒い山街道を見つめたままでいるのだった。
「そ、それよ」
急に、かの女は微かな身もだえを、馬の背に見せて、
「── やよ、皆の者、元の道へ、すぐこま を返し もれ。せめて、女の身でも、行かれる限りの山路まで、わが良人つま を、お送りしようほどに。・・・・それから下山しても、おそくはない。急いでたも、急いで」
もし、手にむち があるなら、鞭を振って、みずから、急いだかも知れない。よまれ、余りに、一途いちず なかの女の気色けしき ばみに、雑色たちも、あわてて口輪を後ろへまわした。そして中の一人が、棒切れを馬に見せたので、馬は彼らを振り捨て、静の心だけを乗せて、粉雪を立てつつ、一さんに駆け出していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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