〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/14 (月)  てん じょう てん (二)

静は、知っていた。覚悟もしていた。
義経から、今、
あした へかけて、雪の峰道を、歩かねばなるまいぞ。・・・・そのつもりで、身じたくを」
と、言われても、うろたえはしなかった。
「はい」
と、素直に従って、しばしとばりうち にかくれ、かすかなきぬ ずれや、櫛匣くしげ の音を、もらしていた。
化粧のもの など、持つはずもなし、寺に備えのあるわけもない。だが、かの女は、寝起きの素顔など一度も義経に見せていなかった。それは、あわれなばかり、いじらしい女の細心に思われた。今も、ほのかな音を伴って、義経の心へ、 みとおってくる。
いと しいやつ。不愍ふびん なやつ。ああ、離したくない。
義経は、その間、自分を失って、思い乱れた。
── だが、身じたくを えて来た静を見ると、彼は逆に、はげ まされていた。
「よいのか、それで」
「はい。何が迫ろうと、うろたえまいと、常に思うておえいましたから」
「いつかは、かかる日が来ると、そなたも、それは、さと っていたか」
「日ごろの、おことばの端からも。・・・・もう、どうぞ、静の身へは、おこころをわずら わし給わりますな」
「よういうた。じつは一山の議定ぎじょう とあって、ここにもおれぬことになった。あわれ、あました 、五尺の身を るる所もない義経。不愍ふびん やなあ、そなたというおみな は。男は、あまたあるものを りに選って、追捕ついぶ に追わるるこのような男に添うとは」
「いいえ、それもこれも、わらわのとが でございました。静ゆえに、どれほど、お苦しいうえにも、お胸を苦しませているのでしょうか。静こそ、罪深い女と思うておりまする」
「そのような びは、思い過ごしぞ」
「いえ、千丈どののお話しを、静も物蔭でうかがっておりました。山の大衆をそそのかす横川の覚範とやらは、先ごろ、吉野へ参る途中、山路で物を問われた大法師でございましょう」
「そのことは、忠信からも聞いていた。なぜそれが、しなたのとが か」
「もし、静が、殿をお慕しして来なければ、山僧の怒りにもふれず、殿を、吉野より追わんなどという沙汰にもならなかったでしょうに」
「なんの、それは、下心ある悪僧の口実。彼らの腹は、畿内きない雑武者ぞうむしゃ も同様、ただ義経の首を て、鎌倉どののお覚えにあずからんとするうごめきならん。この山も、世間のどことも違っていないというだけのもの」
おりふし、渡りの向こう廊下を、どすどすと、よろい具足した面々が通って、中ノ坪へ降りて行った。弁慶だけが、一人、渡りのたもとに残って、ひざまずいき、
「お支度よくば、いつでも」
と、奥へ告げた。
なおしばしは、静も、義経も、そこを出て来なかった。── 無理もないと、弁慶は察している。それにしても、一体この先の奥の奥まで、お連れになるお心か。あるいは、人を添えて、ここから下山させるおつもりなのか。彼はひとりで、気をもんでいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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