静は、知っていた。覚悟もしていた。 義経から、今、 「晨
へかけて、雪の峰道を、歩かねばなるまいぞ。・・・・そのつもりで、身じたくを」 と、言われても、うろたえはしなかった。 「はい」 と、素直に従って、しばし帳とばり
の裡うち にかくれ、かすかな衣きぬ
ずれや、櫛匣くしげ の音を、もらしていた。 化粧の具もの
など、持つはずもなし、寺に備えのあるわけもない。だが、かの女は、寝起きの素顔など一度も義経に見せていなかった。それは、あわれなばかり、いじらしい女の細心に思われた。今も、ほのかな音を伴って、義経の心へ、沁し
みとおってくる。 愛いと
しいやつ。不愍ふびん なやつ。ああ、離したくない。 義経は、その間、自分を失って、思い乱れた。 ──
だが、身じたくを了お えて来た静を見ると、彼は逆に、励はげ
まされていた。 「よいのか、それで」 「はい。何が迫ろうと、うろたえまいと、常に思うておえいましたから」 「いつかは、かかる日が来ると、そなたも、それは、覚さと
っていたか」 「日ごろの、おことばの端からも。・・・・もう、どうぞ、静の身へは、おこころを煩わずら
わし給わりますな」 「よういうた。じつは一山の議定ぎじょう
とあって、ここにもおれぬことになった。あわれ、天あま
が下した 、五尺の身を容い
るる所もない義経。不愍ふびん
やなあ、そなたという女おみな
は。男は、あまたあるものを選よ
りに選って、追捕ついぶ に追わるるこのような男に添うとは」 「いいえ、それもこれも、わらわの科とが
でございました。静ゆえに、どれほど、お苦しいうえにも、お胸を苦しませているのでしょうか。静こそ、罪深い女と思うておりまする」 「そのような詫わ
びは、思い過ごしぞ」 「いえ、千丈どののお話しを、静も物蔭でうかがっておりました。山の大衆をそそのかす横川の覚範とやらは、先ごろ、吉野へ参る途中、山路で物を問われた大法師でございましょう」 「そのことは、忠信からも聞いていた。なぜそれが、しなたの科とが
か」 「もし、静が、殿をお慕しして来なければ、山僧の怒りにもふれず、殿を、吉野より追わんなどという沙汰にもならなかったでしょうに」 「なんの、それは、下心ある悪僧の口実。彼らの腹は、畿内きない
の雑武者ぞうむしゃ も同様、ただ義経の首を獲え
て、鎌倉どののお覚えにあずからんとするうごめきならん。この山も、世間のどことも違っていないというだけのもの」 おりふし、渡りの向こう廊下を、どすどすと、よろい具足した面々が通って、中ノ坪へ降りて行った。弁慶だけが、一人、渡りのたもとに残って、ひざまずいき、 「お支度よくば、いつでも」 と、奥へ告げた。 なおしばしは、静も、義経も、そこを出て来なかった。──
無理もないと、弁慶は察している。それにしても、一体この先の奥の奥まで、お連れになるお心か。あるいは、人を添えて、ここから下山させるおつもりなのか。彼はひとりで、気をもんでいた。
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