〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/13 (日)  てん じょう てん (一)

「── 事態、なんとも、残念にござりますが、右のような、思わぬ仕儀となり果てまいて」
その夜。
吉水院へ引き揚げて来た千丈と実生は、さっそく、義経たちと、一室に会して、ありのままを、しかし、いかにも、いいにくそうに伝えたのであった。
「今さら、いかなる言葉をもって、お びしたものやらと、暗い思いにて、戻りまいた。とはいえ、事のいきさつ、おつつみ申す場合でもございませぬし・・・・」
心から気の毒そうに告げる二人であった。そして、それが、自分たちの裏切りでもあるかのように詫びぬくのである。
「なんの・・・・」
と、義経は打ち消した。
始終を、黙然と聞くうちに、彼の姿には、もう、 「かねて、 したることか」 という観念は出来ていた。
「うらぶれたるこの義経に、過ぐる日よりの厚い御庇護ごひご 、それさえ、どれほど、うれしく思われたことか知れぬに、このうえ其許そこもと たちを、苦しい羽目に立たせてはすまぬ。・・・・のう、面々」
左右の者の、顔を見て ──
「山の議定ぎじょう とあっては、寸時も、ここにいることはなるまい。かたがた、吉水院の迷惑。いで、支度せよ。夜のうちに、ここを立ち出よう」
と、言った。
弁慶も、有綱も、そのほか皆、うなずき合って、すぐにもと、起ちかける。── が、千丈房は、あわてて、一同を引き止め、
「さまで、鳥の立つように、お急ぎあらずとも、まずまず、落ち合う道の、おえらびも大事。また、山中のこの大雪、何かとここで、お支度もおすましあるように」
と、みずから厨房ちゅうぼう へ出て、山僧たちに命じ、暖かい夜食やら腰弁当こしがて の支度を、にわかに、いいつけた。そしてまた、
「・・・・なにもございませぬが、お体をぬく めぬことには」
と、酒を運んで来、心ばかりな別宴を、そこに設けた。
事実、室内でさえ、手足の知覚はないような寒さなのだ。 「── かたじけない」 と、人びとはみな、杯へ手を出した。酒の香に、鼻をつかれて、急に水洟みずばな をすすり上げる者もある。
「ところで」
と、実生房は、満べんなく、酒の瓶子へいし を、人びとの杯へすすめながら、たず ねた。
「これより、人里へお降りになるには、いかにも、危うい心地がいたしますが、御一同には、道をいずれに取って、吉野を出で給うお考えでございますか」
「さあて」
と、弁慶はうめいて、忠信や有綱の顔を見た。たれにも、思案はないのである。
そこで、実生房が言うには。── 子守ノ神職文彦あやひこ がいる水分みくまり 神社は、ここからさらに、登りばかりの峰道一里余りの奥にある。冬は、ほとんど、通う人も見られない。ひとまず、目前の御危難をそこへ避けられては、いかがなものか。
山のうわさも、人里における追捕ついぶ詮議せんぎ も、やがては、下火になるに違いない。よい日和ひより を見、水分みくまりみね から大峰へ越え出れば、どこへおこころざ しあろうと、その先は、もう、御自由と申すもの。
ただ、峰また峰、奥へ行くほど、積雪の量は、想像もつきかねる。── それだに、御辛抱あるならば、最も安全な逃げ道でしょう、と実生房は言うのであった。
義経は、かたわらで、聞いていて、
「それよ、その道こそ」
と、心に決めたもののようである。が、それとも言わず、彼は、静にも、身の用意をさせるため、渡りの橋のかなたへ隠れた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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