なにしろ、女の旅である。馬の背に乗せられているものの、その脚力を活
かすほどには、道の捗はか どれるはずはなかった。 迎えに来た忠信にせよ、童わっぱ
の鷲ノ尾にしろ、騎馬上手じょうず
なので軽々と、始終、前後に付き添っていてくれるが、かの女にすれば、吉野山とは、悲しいほど余りに遠く、山路の谷ぎしやら河の瀬やら、落ちまいとするだけでも、精いっぱいな途々みちみち
だった。 そのうえ、冬十一月の灰色の空にはチラチラと雪を見初め、ようやく四日目のころ、吉野川まで来て、渡舟わたし
の上に乗った時は、身も白鷺しらさぎ
と紛まご うほどな大雪になっていた。 「もう、ここは吉野山のふもと、あと、わずかでございますゆえ、御辛抱ごしんぼう
なされませ」 忠信に励まされ励まされ、静は雪に吹かれつつ、山坂の胸つきを、自分が歩むかのような喘あえ
ぎ方で、馬の背につかまっていた。 でも、その雪風は、冷たくもなんともなかった。むしろ心は、ほほ笑んでいた。 「今日のうちには、わが夫つま
に、お目にかかれる。 ── お逢いできる」 と。 艱苦かんく
というものは、こうも、人を純にするものか。艱苦を伴ともな
っていない男女の仲は、恋などと名づけてみても、まだ、骨身に恋を味わったことでもなければ、生命の上に愛をおいて、自分を捧げきったことでもないのではなかろうか。 「──
おうういっ。おおおいっ」 雪の声ではない、耳のせいでもない。たれか、後から呼んでいるようだった。 佇たたず
んでいると、やがて近づいて来たのは、蓑笠みのかさ
をまとった大法師と、その従僧らしき者とであった。 さっき、ふもとの木賃きちん
で休んだとき、里人さとびと たちと土間炉どまろ
の火を囲みながら、酒を飲んでいた吉野法師があった。 「── ははあ、その法師だな」 と、忠信はすぐ察した。 「待て待て、この山に、見かけぬ者たちだが、御辺がたは、そもどこへ行かれる?」 大法師は、こなたへ、近づきながら、忠信は見ないで、静の方へばかり眼をそそいだ。 「されば、奈良の在所の者でおざるが、吉水院きっすいいん
の知るべを訪ねて参りますので」 「吉水院のたれを」 「千丈房と仰せられますが」 ── 言っては、まずいかとも思われたが、ぜひなくそれだけを明かして、
「── その吉水院までは、なお、だいぶ道程みちのり
がございましょうか」 と、忠信は、言葉を外らした。 大法師は、充分不審を抱いているらしいが、これも、さり気ない風で。 「── さよう、道はまだ幾曲がりの登りだが、あと二十町とはあるまい。やがて山上へ出れば、金峰山きんぷせん
の本坊やら蔵王ざおう 権現ごんげん
の山門が右手に望まれよう。それに添うて門前町の民家も軒を並べておる。ともあれ、その辺で、また問うてみるがいい」 「ありがとう存じまする。してあなたは、いずれの御房でございますか」 「横川よかわ
の覚範かくはん と申す法師じゃよ。──
オオ、えらい大雪になって来た。気をつけて行くがいいぞ」 覚範と連れの者は、そい言い捨てて、馴れた山道を、先へ進み、いつか、忠信たちの馬よりはるかになっていた。 山深むほど、雪は厚く、馬も行き悩むほどだった。けれど、どうにか、先に覚範が教えてくれた山中の門前町が、ようやく、近くに見え出していた。 その辺りの一軒で、 「吉水院は、どこか」 と訊き
いてみると、 「ご覧ろう
じませ。あの、谷間へ臨んで見える、御堂みどう
や門の一郭がそれでそれでござります」 と、女はわざわざ、そこへ降りる谷道の口まで来て、教えてくれた。 「・・・・おお、あのお屋根がそれか」 と、静の瞼まぶた
は、すぐ、こみ上げる胸のものに、義経に会うまでも待てないように熱くなった。同時に、ここは天上の国かと、四方のながめに、眼を疑った。見るかぎりな雪の峰、雪の谷、そして所々ところどころ
にあるのは、塔や楼門の屋根だけである。 ああ、遠い遠い人の世間。 美しい、この人界の外。 ほっとした安心感に、疲れも忘れ、静は何か恍惚こうこつ
としていた。── かの玄宗皇帝が、天上にある貴妃きひ
を恋うて、夢に、その西廂せいしょう
をたたき、貴妃きひ の魂魄こんぱく
を驚かせたという長恨歌ちょうごんか
のあの一章もさながらであった。その間に、早くも忠信は吉水院の門へ向かっておとずれていた。 |