〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-U』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十五) ──
しずか の 巻

2014/07/13 (日) つ ら ら すだれ (一)

なにしろ、女の旅である。馬の背に乗せられているものの、その脚力を かすほどには、道のはか どれるはずはなかった。
迎えに来た忠信にせよ、わっぱ の鷲ノ尾にしろ、騎馬上手じょうず なので軽々と、始終、前後に付き添っていてくれるが、かの女にすれば、吉野山とは、悲しいほど余りに遠く、山路の谷ぎしやら河の瀬やら、落ちまいとするだけでも、精いっぱいな途々みちみち だった。
そのうえ、冬十一月の灰色の空にはチラチラと雪を見初め、ようやく四日目のころ、吉野川まで来て、渡舟わたし の上に乗った時は、身も白鷺しらさぎまご うほどな大雪になっていた。
「もう、ここは吉野山のふもと、あと、わずかでございますゆえ、御辛抱ごしんぼう なされませ」
忠信に励まされ励まされ、静は雪に吹かれつつ、山坂の胸つきを、自分が歩むかのようなあえ ぎ方で、馬の背につかまっていた。
でも、その雪風は、冷たくもなんともなかった。むしろ心は、ほほ笑んでいた。 「今日のうちには、わがつま に、お目にかかれる。 ── お逢いできる」 と。
艱苦かんく というものは、こうも、人を純にするものか。艱苦をともな っていない男女の仲は、恋などと名づけてみても、まだ、骨身に恋を味わったことでもなければ、生命の上に愛をおいて、自分を捧げきったことでもないのではなかろうか。
「── おうういっ。おおおいっ」
雪の声ではない、耳のせいでもない。たれか、後から呼んでいるようだった。
たたず んでいると、やがて近づいて来たのは、蓑笠みのかさ をまとった大法師と、その従僧らしき者とであった。
さっき、ふもとの木賃きちん で休んだとき、里人さとびと たちと土間炉どまろ の火を囲みながら、酒を飲んでいた吉野法師があった。 「── ははあ、その法師だな」 と、忠信はすぐ察した。
「待て待て、この山に、見かけぬ者たちだが、御辺がたは、そもどこへ行かれる?」
大法師は、こなたへ、近づきながら、忠信は見ないで、静の方へばかり眼をそそいだ。
「されば、奈良の在所の者でおざるが、吉水院きっすいいん の知るべを訪ねて参りますので」
「吉水院のたれを」
「千丈房と仰せられますが」 ── 言っては、まずいかとも思われたが、ぜひなくそれだけを明かして、 「── その吉水院までは、なお、だいぶ道程みちのり がございましょうか」
と、忠信は、言葉を外らした。
大法師は、充分不審を抱いているらしいが、これも、さり気ない風で。
「── さよう、道はまだ幾曲がりの登りだが、あと二十町とはあるまい。やがて山上へ出れば、金峰山きんぷせん の本坊やら蔵王ざおう 権現ごんげん の山門が右手に望まれよう。それに添うて門前町の民家も軒を並べておる。ともあれ、その辺で、また問うてみるがいい」
「ありがとう存じまする。してあなたは、いずれの御房でございますか」
横川よかわ覚範かくはん と申す法師じゃよ。── オオ、えらい大雪になって来た。気をつけて行くがいいぞ」
覚範と連れの者は、そい言い捨てて、馴れた山道を、先へ進み、いつか、忠信たちの馬よりはるかになっていた。
山深むほど、雪は厚く、馬も行き悩むほどだった。けれど、どうにか、先に覚範が教えてくれた山中の門前町が、ようやく、近くに見え出していた。
その辺りの一軒で、
「吉水院は、どこか」
いてみると、
「ごろう じませ。あの、谷間へ臨んで見える、御堂みどう や門の一郭がそれでそれでござります」
と、女はわざわざ、そこへ降りる谷道の口まで来て、教えてくれた。 「・・・・おお、あのお屋根がそれか」 と、静のまぶた は、すぐ、こみ上げる胸のものに、義経に会うまでも待てないように熱くなった。同時に、ここは天上の国かと、四方のながめに、眼を疑った。見るかぎりな雪の峰、雪の谷、そして所々ところどころ にあるのは、塔や楼門の屋根だけである。
ああ、遠い遠い人の世間。
美しい、この人界の外。
ほっとした安心感に、疲れも忘れ、静は何か恍惚こうこつ としていた。── かの玄宗皇帝が、天上にある貴妃きひ を恋うて、夢に、その西廂せいしょう をたたき、貴妃きひ魂魄こんぱく を驚かせたという長恨歌ちょうごんか のあの一章もさながらであった。その間に、早くも忠信は吉水院の門へ向かっておとずれていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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