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== 流 浪 の 盛 唐 詩 人 ==

2008/06/17 (火)  流浪の盛唐詩人 (五)

天宝三年 (744) 、杜甫が三十三歳になったとき、先にも記したように、長安から李白が洛陽にやって来た。
科挙の試験に落第してから早くも十年の歳月が過ぎ、才能を抱きながら空しく壮年の日々を送っていた杜甫にとっては、たとえ今は宮中を追われて天子側近の地位を失ってはいても、名声の天下にとどろく大詩人・大先輩を目のあたりにして、その喜びはいかばかりであっただろう。
杜甫は李白に心酔した。
李白の語る花の都の長安の様子や、宮中の豪奢な生活ぶりは、杜甫の耳には夢のようにひびいたであろう。
二人の間には、十一歳という年齢の隔たりは、問題にはならなかったようである。
この年の秋から翌天宝四年の秋にかけてのほぼ一年の間、二人は一緒に旅をした。まず訪れた梁 (リョウ) (開封 (カイホウ) ) ・宋 (ソウ) (商邱 (ショウキュウ) ) のあたりでは、やはり浪々不遇の状態にあった岑参 (シンジン) や高適 (コウテキ) らの詩人たちも加わって、共に酒を飲み、詩を賦して愉快な日々を過ごした。

李 白 に 贈 る
秋来相顧尚飄蓬

未就丹砂愧葛洪

痛飲狂歌空度日

飛揚跋扈為誰雄

秋来あい 顧ればなお ひょう ほう

いま丹砂たんしゃ かず葛洪かつこう

痛飲狂歌むな しく日をわた

飛揚ばつ が為にか雄なる

第二句は、晋の葛洪 (カツコウ)丹砂を用いて仙薬 (センヤク) を錬 (ネ) ろうとして、丹砂を産する交趾 (コウシ) (ベトナムのハノイ近く) の県令になることを願ったという故事による。 「飛揚跋扈」 は勇敢にあばれまわること。
毎日毎日痛飲し狂歌しながらも、心の底には互いに払い切れぬ憂愁の念があったのであろう。
更に二人は、斉 (セイ) 州・袞 (エン)(ともに山東省) へと、行を共にしている。
やがて二人に、別れねばならぬ時がおとずれる。 「魯郡の東、石門 (セキモン) にて杜二甫を贈る」 という李白の詩は、その別離の際の作であるが、石門は袞州の東北、孔子を祭る曲阜 (キョクフ) の北にある山で、別れに当って二人は固く再会を約したであろうが、そののち遂に再び会う機会は訪れなかった。
李白と別れた翌年の天宝五年 (748) 、杜甫は長安の都へのぼった。三十五歳のときである。
李白と杜甫がめぐりあい、一年という短期間ながら共に過ごした時期は、ちょうど楊貴妃が入内し、また安禄山がしだいに台頭する時期と一致している。すなわち李白が翰林供奉 (カンリングブ) としてとり立てられ、杜甫が歴遊の旅から洛陽に帰った翌年の天宝元年 (742) に、安禄山は平盧節度使に任ぜられ、その翌々年の天宝三年には范陽節度使を兼任した。
同じ年に寿王の妃であった楊玉環は玄宗に召され、翌天宝四年には貴妃にたてられた。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:巨勢 進  ヨリ