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== 流 浪 の 盛 唐 詩 人 ==

2008/06/18 (水)  流浪の盛唐詩人 (六)

天宝六年 (747) 、杜甫三十六歳の時、玄宗は一芸に秀でる者を都に集めて特別試験を実施ことになった。杜甫は高適 (コウテキ) や元結 (ゲンケツ) らと共に、この試験に応じたのであったが、又しても不合格になってしまった。実はこれには裏がある。時の宰相で “面柔 (メンジュウ) にして狡計 (コウケイ) あり” (見かけはおだやかだが、腹黒い) と評される李林甫が、文学の士の政治批判を恐れ、受験者全員を不合格とし、 「野に遺賢なし」 ── 在野に埋もれた賢人はいません、と玄宗に報告したためである。
折角のチャンスを失した杜甫は、その失意の内にも多くの貴族や大官の屋敷の出入りして、詩を贈って引き立ててくれることを願っているが、なかなか就職運動は成功しなかった。
もともとこれは杜甫は人との交際があまり上手でなかったらしい。しかし定職がなければ収入も乏しく、生活は苦しいばかりである。しかもその間に、三十九歳のときに長男の宗文 (ソウブン) が、四十二歳の時には二男の宗武 (ソウブ) が生まれ、それから家族を連れての長安での生活は一そう苦しさを増すばかりであった。
これに加えて、ここ数年来、旱魃 (カンバツ) や水害のために陝西 (センセイ) 省一帯を大飢饉が襲い、物価が高騰したため、どうにも暮らしが立たなくなった杜甫は、妻の一族が県令 (知事) をしている長安の東北、奉先 (ホウセン) 県に妻子を預け、自分は都で一人暮らしをすることにした。
ところが、天宝十四年 (755) 十月、奉先に妻子を訊ねて長安に帰って来た杜甫は、にわかに右衛率府冑曹参軍 (エイソツブチュウソウサングン) という官職に任命された。以前から朝廷に奉った文章が玄宗の目にとまったか、あるいは大官に捲いておいた就職運動の種子が、ようやく芽を出したのである。この官職は、いかめしい名称にかかわらず、宮中の武器庫の番をする、いわば最低の官職であるが、この際は背に腹はかえられぬ。
喜んだ杜甫は、とんぼ返りに十一月初めの寒風の噴き始めた中を、妻子を迎えるために奉先へと向かった。
安禄山が、打倒楊国忠をスローガンにして反乱を起こし、天下を未曽有の大混乱に陥れる、ほんの数日前のことである。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:巨勢 進  ヨリ