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== 流 浪 の 盛 唐 詩 人 ==

2008/06/17 (火)  流浪の盛唐詩人 (四)

ここでしばらく、杜甫に話を転じよう。
杜甫、字は子美 (シビ) 。玄宗が即位した先天元年 (712) の生まれであり、李白よりも十一竿の年少ということになる。
杜甫の家柄は、李白の場合と異なり、かなりの名家である。古くは漢の時代までさかのぼるが、十三代前の先祖には晋の名将として活躍し、また 『春秋左氏伝 (シュンジュウサシデン) 』 の注釈を書いた杜預 (トヨ) がいる。杜預は兆案郊外の杜陵 (トリョウ) の人であるが、そののち杜氏は襄陽 (ジョウヨウ) (湖北省) に移った。杜甫を “襄陽の人” ということがあるのは、その本籍地をいうのであり、実際はこの地と杜甫とは無関係である。
杜甫自身は河南省の鞏県 (キョウケン) で生まれた。ここは杜甫の曽祖父の杜依芸 (イゲイ) が、県令 (知事) として赴任した土地である。その依芸の子、つまり杜甫の祖父は杜審言 (シンゲン) といい、初唐の詩人として活躍し、とりわけ律詩の作者として名高い。ただこの人物は少々くせのある、傲慢な性格であった。常々、
「オレの文章は屈原 (クツゲン) や宋玉 (ソウギョク) を家来にし、オレの書道は王義之 (オウギシ) に頭を下げさせる」
と言っていた。
審言は則天武后にとり立てられたが、その失脚とともに嶺南 (レイナン) (ベトナム) に流された。のち許されて戻るが、死ぬ間際に、見舞いにきた友人に、
「オレは長い間お前たちを押さえつけて来たが、もうすぐ死ぬから安心しろ」
と言ったという。
とかくあまり評判のよくない人物であるが、杜甫はこの祖父を敬愛し、孫であることを生涯の誇りにしていた。
杜甫の詩の中に、 「吾が祖の詩は古 (イニシエ) に冠たり」 といい、また 「詩は是れ吾が家の事」 ── 詩こそわが杜家の専業だと自負していることばが見える。
杜甫の父杜閑 (カン) は奉天 (ホウテン) の県令となった。
母の崔 (サイ) 氏も名門の出であるが、この母を早くなくした杜甫は、洛陽に住む叔母のもとで養われた。
杜甫の少年時代については、あまりよく分かっていないが、晩年に自らが語るところによれば、黄犢 (コウトク) (小牛) のように健康で、一日に千回も庭の棗 (ナツメ) の木に登るような、元気な子供であった。七歳に頃から詩を作り、やがてその才能が洛陽の名士たちの間にも知られ、認められるようになった。
開元十八年 (731) 、十九歳の頃から数年の間、江蘇 (コウソ) ・浙江 (セツコウ) のあたりを旅行し、開元二十三年 (735) 、二十四歳の時にいったん洛陽に帰り、科挙 (カキョ) (官吏登用試験) に応じたが落第し、失意のうちに再び旅に出た杜甫は、今度は山東・河北のあたりを歴遊した。
開元二十九年 (741) 、三十歳のとき、山東の旅から帰った杜甫は、洛陽の東の首陽 (シュヨウ) 山のもとに陸渾荘を築き、婦人楊氏と結婚した。この女性は杜甫の生涯の伴侶であり、艱難辛苦をともにした人である。
この頃までの杜甫の作品は、今日あまり残っていない。杜甫自身が四十歳の頃に自分の詩を整理して、若い頃の作品は殆ど棄ててしまったからだというが、その、わずかに残る若き日の杜甫の作品を一首、記してみよう。

がく を 望 む
岱宗夫如何
斉魯青未了
造化鍾神秀
陰陽割昏暁
盪胸生曽雲
決眥入帰鳥
会当凌絶頂
一覧衆山小

岱宗たいそう かん
せい せい いまおわ らず
造化神秀をあつ
陰陽昏暁を かつ
胸をうご かして曽雲生じ
まなじり を決して帰鳥入る
かならまさ に絶頂をしの いで
衆山  の小なるを一覧すべし
「嶽を望む」 と題するこの詩は、杜甫の詩集の最も初期におかれたものの一つであるが、五岳の一つである名山、山東の泰山を遠く望んで詠われたものである。
末の二句には、 「いつかはきっと、あの山の絶頂に上って、ほかの山を低く見てやろう」 という、少壮の血気がみなぎり、将来への明るい希望が詠われている。しかし、杜甫の前途は、なかなか開けてはいかなかった。
現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:巨勢 進  ヨリ