茶屋は、家康が作左衛門を呼び止めるであろうと思った。しかし家康はべつに止めはしなかった。 「そうか、戻るか」 そう言って、もはやいつものゆったりとした表情のまま、 「若い気で、無理をするな」 と。後背
へ一言投げるように浴びせかけた。 食膳が出かかっているのに、帰ると言って起ち上がった方もわがままだが、それを止めない家康も普通ではない・・・・と、思ったときに、さらに作左衛門は手きびしい捨てぜりふを吐いて去った。 「あ、無理をせぬで済むようなことに、早うしていただきたいものじゃ」 茶屋はびっくりしてまた家康を見返した。 (今度は怒る!) そう思ったのだが、家康は、そのときはもう彦左衛門をかえりみて笑っていた。 「どうだ平助、年をとると、そちもああいう爺になりそうじゃ。気をつけるがよいぞ」 「これは嬉しいお言葉、恐れ入ってござりまする」 「なに、嬉しい言葉だと?」 「はい。この彦左、せめてのことに、あの老人くらいにはなりたいものと日夜励んでおりますので」 「聞いたか茶屋」 「は・・・・はいッ」 「どうして、こう臍
の曲がった奴が、わが家には代々出て来るのかのう。関白がご覧なされたらその無礼さにびっくりなさろう。主人と家来のけじめがなさすぎる」 茶屋四郎次郎は答える代わりに、うやうやしく膳の前で合掌した。 相変わらず麦飯だった。それに椀の底のすけて見えそうな味噌汁と、香の物のほかは、いかにも塩からそうに乾からびた小鰯
が一尾ついているだけだった。 「時が移った。空腹だったであろう。遠慮はいらぬぞ」 「恐れ入ってござりまする。では頂戴を」 茶屋四郎次郎はふと堺の町人の食膳と思い比べた。他人に出す食事と言えば、どんなに粗末であっても、このほかに、なます
と野菜の煮つけだけはついて出る。 (大納言にもなろうというのに、いまだにこのようなお食事をなされている・・・・) そう思うと、茶屋四郎次郎はあやしく眼先がかすみかけた。彦左衛門はとにかく、四十六歳の家康が、何と言う満足しきった箸
の運びようであろうか。 (厳しい禅堂での生活にも比すべきもの・・・・) 茶屋の知っている限りでは町人でも、このような質素さを守りとおして、しかも活き活きと暮しているのは本阿弥光二と光悦の一家くらいのものであった。 光悦の母の妙秀
はきびしい日蓮信者で、他人に珍しい絹織物など送られると、それを細
く袱紗 にわけて、出入りの貧しい職人の妻女たちにわけてやり、一物も、私
しない。世間ではこれも時々 「吝嗇
なのでは・・・・」 などと噂したが、自分ではいつも木綿のものしか着なかった。 家康も、どこかそれに似ている。極端に消費をつつしみながら、つねに不時の入り用に備え、考えていることは世の中のためらしかった。 それでなければあの明るさは・・・・と、思ったときに突然家康の方から話しかけて来た。 |