〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/18 (日) 無 心 有 心 (八)

家康に話しかけられて、彦左衛門はニヤリとした。ようやく彼のも、家康と作左衛門の話の奥に、何があるかがわかりかけた。
「すると要するに・・・・」
と、彦左衛門は、双方を押えるような身ぶりで口を開いた。
「殿の仰せも、年寄りの話も、五十歩百歩のようで」
「なに五十歩百歩だと」
「さよう、有心は無心に通じ、無心はまた有心、そうであろうがご老体」
「禅坊主のようなことを言うな。人間には最後まで闘志がなければならぬ。闘志第一と申し上げたのだ」
「その闘志は、しかし・・・・」
と、彦左衛門は まじめに茶屋を見やって、
「天下第一等のことのために燃やす闘志でなければ匹夫ひっぷ の勇になる。そこでご主君は天下第一等のこと以外は心にかけぬ。つねに無心でいようと仰せられる」
「平助!」
「まだお怒りかご老体は?」
「お手前、この年寄りに説教する気か」
「説教したとて、聞くご老体ではない」
「では、いまの能書のうがき き、誰に向かって申しているのじゃ」
「これはしたり、ひとごと でござる。ひとり言というものは、大体自分の納得のために申すもの・・・・これ、相わかったか平助!」
自分に向かってそう言うと、彦左衛門はニヤニヤしながら茶屋の前で手を振った。
「松本どの、これでござるからの。関白が、うかつなことなど口になさると、蜂の巣を叩きこわしたようなことになりかねぬ。おそろしい士風でござるこれは・・・・」
「いや、心強いことで」
茶屋四郎次郎はようやく一座の圭角けいかく がとれて来たので、ホッと大きくため息した。
「わしも、ただ、そうしたことを耳にしましたゆえ、不意打ちではと存じていらぬことを申しましたようで」
「松本どの」
「はい。これでもうすっかり安堵を」
「いらぬことではござらぬぞ。わざわざ下向くだされた値打ちは充分にござった。少なくともこの彦左衛門には・・・・いざと言えば殿は北近江に、ご老体は清洲から岐阜までおいである気とわかったからの」
「そう仰せ下されば、わしも面目が立ちまするが」
「そうなれば、この彦左はさしずめどこまで出て行くべきか。やはりこれは大坂城までまっ先に乗りつけねば相なるまいて、ワッハッハッハ・・・・おかげで、覚悟が決まりましたわい」
「平助」
家康は笑いを納めて、
「こんどの上洛はその方も伴うことにしよう」
「一番乗りをさせて下さりまするので」
「そうではない。作左の頑固さに手を焼いたゆえ、そちは今から世の中に引き出して、人になれさせておかねばならぬ」
「人になれさす・・・・まるであば れ馬のようなことを仰せられる」
「暴れ馬ではないと思うのか。その方たちに乗っていると、どこへ突っ走るかわからぬゆえ、わしもなかなか無心にもなれぬわ。のう茶屋」
家康はそう言うと、破顔はがん して小姓を呼び、
「湯づけの支度を」
と、みんなのために命じていった。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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