〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/18 (日) 無 心 有 心 (七)

茶屋四郎次郎はハラハラと、家康を見やり、作左を見やり、彦左衛門を見やった。
彦左衛門はこれもいつか膝の拳を固く握って身を乗り出している。
「われらの策は、無心などではないぞ殿」
「前口上はよい。本筋の策を申せ」
「申さいでか。わしの策は関白にあやしい節や無礼なきざしが見えたら、すぐさま尾張へなだれ込めということじゃ。まず尾張へなだれ込んで清洲きよす から岐阜ぎふ をおさえ、そのうえでうしろを向いて号令すればこと足りると申しているのだ」
「号令とは、誰に向かって発するのじゃ」
「東を向けばみなまだお味方じゃ。北条、上杉、伊達とある。九州征伐のように行くものか。関白にお花見などはせせておかぬわ」
茶屋四郎次郎はあわてて口をはさんだ。
「それはもう、たしかに本多さまの申すとおり・・・・それゆえ、関東のことが片づくまではそのようなことも申し出はすまいが・・・・と、私は申し上げましたはずで」
「黙られよッ茶屋どの、今にはわしの意見、これから殿がお持ちという策をここで聞かねばならぬ。さ、殿! 作左の策は申し上げました。こんどは殿の番じゃ」
家康はようやく胸のしこりが溶けて、おかしさがこみ上げた。
茶屋四郎次郎は、もう充分に作左によって代表されたこの士風の前に困惑しきっている。京に戻って、どのような場合に、どのような話が出てもこの士風を忘れて弱味をさらすようなことはあるまい。
「ハハハ・・・・」
家康はとうとう笑いだした。
「すると作左、そちの言葉に従うと、明日にも兵を出さねばならぬことになるのう」
「なぜでござりまする」
「茶屋がもう、相手にあやしい節があると知らせて来ている」
「それは話の本筋ではござりませぬ、殿は何となさる気か、その策を申されませ」
「わしの無心と申したのはな、人事を常に尽くせという意味じゃ。人事を尽くした上での行動には、もはやアレコレと気は使うまいぞと申したのじゃ」
「これは廻りくどい。曲言じゃ。わしは関白が国替えなどと言い出したときのことに限って申しているのに」
「そのときには、何でそちの指図を待とう。さっさと北近江まで一挙に出るわ」
「フーム」
「考えることはあるまい。わしに国替えを命じるようでは東の事が治まらぬ。東が治まらなくなれば日本の不為、日本の不為をあえてするような人の下風かふう に、なんで家康が立つものか。作左! よくこのことを心に刻みつけておけ」
「フーム」
「ただわしがお愛の生き方に訓えられたと申したのは、この日本の為・・・・には、どのような堪忍もしようと申したのじゃ。この堪忍をそちの申した闘いに置きかえてもよ。のう茶屋」
「は・・・・はいッ」
「しかし、関白もまたわしと同じお志・・・・それゆえこれは、今とやかく申すことではない。人事は尽くしてある。それゆえ無心に祝儀に参ろうと申している。国替えなど匂わしたら、それは国の不為とたった一言でよいはずじゃ。そうであろうが平助」

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next