家康は、そっと眼を開いた。眠っているのではなく、かと言って起きているというのでもない。 みんなの会話はそのまま聴覚を通って来ているのだが、それに感情をかき立てられる事はなくて、充分休養はとっているという、ふしぎな近ごろの仮睡のとり方だった。 「殿!
みんなの話をお聞きなされましたか」 「おお、あらかた聞いておる」 「聞いておられたのならば、作左の意見を申し述べまする。作左はここで祝儀など申しに、わざわざ上洛はせぬがよいと存じまする」 「なぜじゃな」 「相手は、あれこれとカラ恩を売る気なのじゃ。秀吉などに権大納言も中納言もいただくには及びますまい。自分の腹は少しも痛まぬのじゃ」 「作左」 「なんでござりまする」 「こなた、大納言が肩に重いか」 「これは妙なことを言わしゃる。秀吉などにそのような腹の痛まぬ恩を・・・・」 「待て作左。向うも腹は痛まぬが、こっちも貰ったとて貰わぬとて、さして邪魔にも重荷にもならぬものじゃ」 「と、言わっしゃると、殿は行く気じゃな」 「そうじゃ」
と、家康はあっさりうなずいて、 「秀吉だの関白だのとこだわるな。日本のために九州が片づいた。そのお祝いを禁裏へ申し上げに行く・・・・ただそれだけのこと」 「そうして、そのあとで抜き差しならぬように圧
えつける。茶屋の心配が殿にはおわかりないと見える。もし国替えなどと言い出されたら・・・・」 そこまで言って、本多作左衛門はじれったそうに舌打ちした。 「あれこれと恩や義理を積み重ねて、否応
言わさぬ素地 を作る。そのうえで難題出されて聞かねば叩かれるとわかっていたら、始からこっちもその手に乗らぬという気構えが大切じゃ」 家康はちらりと茶屋を見やってから豊な頬を引きしめた。 「みなの案じてくれるのはよくわかる。が、わしの考えはの、お愛が亡くなるころから少しずつ変わって来たのじゃ」 「どうお変わりなされましたので」 「お愛はよい女子であった!」 「それはもう・・・・類のない貞婦の鑑
」 「わしは、お愛の生き方と、築山
どのの生き方とを、こんどはしみじみ比べてみた・・・・」 「フン、女子の話で」 作左衛門はわざと家康を怒らすようにわきを向いたが家康はとり合わなかった。 「お愛は人間にできる最高の堪忍
をわしに訓 えてくれた。あれは、わしより深いところで生きた女子じゃ」 「さようでござりましょうなあ」 茶屋が合槌を打つと、家康の目にはかすかに光るものが宿っていった。 「築山どのと話してゆくと、わしは怒りを覚えた。相手の申し分が正しければ正しいほどに怒りを掻きたてられる・・・・正しいことは、ときに少しも人間を仕合わせにはせぬものだった」 「なるほど」 「ところがお愛には、正しさの主張がなかった。その名のようにいつも愛があるだけだった・・・・」 家康は、そこであわててみんなから顔をそむけた。 |