〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/16 (金) 無 心 有 心 (二)

「本当に眠ってしまった様子じゃの」
「作左衛門が言うと、彦左衛門はホッとしたように、
「されば、ここもと、西郷の局の仏事などで、いささか拾うなされておわすゆえ」
「彦左」
「なんでござる」
「やはり、殿は、ご落胆なされておわすか」
「ご落胆なさらねば人ではござりますまい」
「小理窟を聞いているのではない。身にこたえておわすかどうかと聞いているのだ」
「これはしたり、小理窟など申しているのではない。身にこたえぬはずはなかろうと・・・・」
「それが小理窟じゃ。こたえようにもいろいろあろうが」
「いろいろとは、どのようないろいろでござる」
「呆れた男だ。骨肉の疲れか、心の打撃か、それがそばで見ていてわからぬのか」
「それならば双方でござる。何しろ西郷の局ほど、黙々としながら内助なされたお方はござらぬゆえ」
「フン」
「フンとは何でござる。ご異存がござるのか」
「フンとは鼻のさき で笑うた笑いじゃ。内助の功など、おぬしに説かれずともわかっているわ」
「いやはや、小理窟の多い年寄りじゃ。それを忘れて、彦左が小理窟を申すなどと・・・・」
本多作左衛門は、もうそれには取り合わずに、茶屋四郎次郎に向き直った。
茶屋はハッとしたように白扇の手をとめて、何を訊かれるのかと待ち受ける構えになった。
作左衛門はそれにも 「フン」 と一笑いっしょう を投げておいて、
「殿が眠っているほどゆえ、案ずることもあるまいが・・・・」
と、声を落とした。
「仮に関白に国替えの下心があるものとして、殿を大坂表へ祝儀にやったとしたら、いったい関白め、どのような扱いをすると思うぞ」
「さればでござりまする」
茶屋は、家康の呼吸をはばかるyぷに、
「道々、あれこれと考えてまいりましたが、関白はあのご気性ゆえ、おそらくこんどなどはただただ隔意かくい なく、叙位任官のことなどお取り計らい下さることと存じまする」
「なるほどのう」
「もはや於義丸さまが三河の少将、それゆえお館さまには正二位、権大納言ごんのだいなごん ぐらいのことは・・・・」
「フン、何の腹も痛まぬ鼻薬はなぐすり だからの」
「それにあるいは、長松丸さまにも、叙位のうえご元服のことなど」
「なるほど、於義どのが秀康と関白の名乗りの秀の字をおしいただいている。長松丸君もそうなろうのう。いずれにしろ、腹の痛まぬカラ恩売りじゃ」
そう言ってから作左衛門は、かたわらの彦左衛門に向かっていった。
「平助、殿を起こせ。われらのことではない。お家のことじゃ」
そう言われると彦左衛門は、家康の耳もとに口を寄せて、
「殿!」
と、途方もない声でどなった。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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