〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/16 (金) 無 心 有 心 (一)

駿府城の奥庭には、はぎ の花がこぼれるように咲き盛っている。
こよみ の上ではまだ七月だったが、しでに初秋の匂いがただよいそめ、縁から吹き入る風に空の高さが感じられた。
家康は、秀吉の従って九州へ出征していった本多豊後守ぶんごのかみ 広孝ひろたか の手からつか わされた、大村おおむら 武大夫たけたゆう の報告に、さっきから薄く目を閉じたまま耳を傾けている。
その両側には大久保彦左衛門と本多作左衛門、少し離れて京から駆けつけた茶屋四郎次郎が、きちんと坐って控えている。
「すると、少将さまは、筑前の境、巌石がんじゃく 城の攻略には、お手柄をせなんだと言われるのか」
大久保彦左衛門は、家康の代わりにときどき口をはさんでは、相手の報告の不明な部分を確かめた。
「はい、その折少将さまは、二番手に進まれましたが、ご到着なされたときには、もはや城が落ちておりましたので」
武大夫は、戦場焼けのした赤銅しゃくどう いろの面をいかにも残念そうにゆが めて答えた。
少将さま・・・・とは、秀吉のもとへ養子にやった於義丸おぎまる のことであった。
於義丸はすでに三河少将秀康ひでやす と名乗り、こんどの九州陣には、佐々さっさ 成政を差し添えとして一方の大将で戦列に加わっていた。
「フーム。駆けつけたときにはすでに落城・・・・と、申せば敵の落ち方が早すぎたのか、それとも少将さまの進まれ方が・・・・」
「その義ならば、少将さまのい責任ではござりませぬ。落城が予定より早かったのでござりまする。しかし、少将さまはそれを無念に思し召され、間にあわなんだのが口惜しいと、ハラハラ落涙なされました」
「なに、口惜し泣きに泣かれたと申すか」
「はい、それを佐々陸奥守むつのかみ どのごろう ぜられ、さすがは徳川どのご子息ほどある。みな見習えよと、家臣の前でご嘆賞なされました」
「そうか、それならば間違いあるまい」
彦左衛門はギロリと家康の方を見やって、
「本多豊後守どのは立派に功を立てられた。少将さまもご元気・・・・それで、みなみな無事に去る十四日、関白どのと共に大坂へ立ち戻られてと、申すのじゃな」
「はい。大坂表での歓迎は至れり尽くせり・・・・しかしながら、万一お館さま、大坂へ戦勝の祝儀におのぼりとあらば、そのまま滞陣たいじん 、お待ち申そうか否かと、それをうかがいに参ってござりまする」
「わかった」
と、彦左衛門は大きくいなずいて、
「お聞きのとおりにござりまするが・・・・」
しかし家康は答えなかった。
半眼のままあるいは眠ってしまっているのかも知れない。
「お館さま」
もう一度彦左衛門が声をかけたが、いぜんとして禅定ぜんじょう に入っているかのように動かない。
岡崎からやって来ていた本多作左衛門がフフッと笑った。
「よしよし、そちは退ってしばらく休め。いま殿とご談合の上で、何分の指図をしよう」
「かしこまりました。では、しばらく休ませていただきまする」
武大夫が小首を傾げながら退ってゆくと、作左衛門は、彦左と茶屋を等分に見やってもう一度、
「フフ・・・・」 と、笑った。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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