〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/12 (月) 蜘 蛛 (三)

お吟は、細川夫人を姉のように慕いもし尊敬もしていた。
一方は明智光秀の娘、一方は松永久秀の娘という境遇の近似もあったが、それ以上に二人は互いの才気とさとさ・・・ を認めあっている。
夫人はいまは幼いおりの愛称の桔梗ききょう を改めて、細川家では珠子たまこ としている。洗礼名はガラシャと言って、同信の人々は洗礼名を呼んだが、お吟はやはり桔梗さまと呼びたかった。
信長が、その才気と容色を愛して、明智家の紋どころをそのまま愛称にしたと伝えられているように、そのころの信長と光秀とは肝胆かんたん 相照らした主従しゅじゅう であった。
それが、信長の口利きで細川与一郎忠興に嫁いでからの彼女の身の上には、言いようもない変転と辛労しんろう がつきまとった。
光秀が信長を本能寺に攻めた後は、当分逆臣の娘として世をはばかり、人眼をおそれる別居が続いた。そしてそれはようやく秀吉の口添えで許されはしたものの、そのときには、少なからず良人との間に溝が出来ていた。
忠興は聞こえわたった猛将、夫人は無類の勝ち気なのだから無理もない。
夫人の信仰は忠興の容れるところとならず、忠興の信仰はまた、夫人には歯痒いもののようであった。
それなのに、よく二人の子供を育てて、きびしく良人をぎょ して来ている。
たしか、この屋敷の普請中だったとか、二人が気まずく対座しているところへ、かわら 職の一人が誤って屋根を踏み抜き転落てんらく して来たのを、忠興は怒りに任せて斬り捨てたそうな。
その時に夫人は強い視線で良人を見返したまま少しも恐怖を示さなかったので、
「── こなたは恐ろしい女子じゃ、鬼じゃ!」
忠興が吐き捨てるようにののし ると、夫人は静かに言い返したそうな。
「── 殿に似合った、鬼の女房でござりまする」
そうした夫人の、今日の言葉だけに、お吟はがじめてギクリとなった。
── お吟を秀吉に近づけて利用しようとする堺衆があるように、利休居士の気性を利用して、事をたくら む人もあろうとは、聞き捨てならぬ言葉であった。
「奥方さま、もっとくわしくお話し下さりませ。それはいったい何のことでござりまする」
夫人は微笑ほほえ むような、睨むような視線で、しばらくじっとお吟を見返したのち、
「わかりませぬかなあ、こなたほどの妻女に」
と、ため息した。
「わかりませぬ。父に気性を計算してとは、何のことでござりまする」
「お吟さま」
「はい」
「こなた、こなたの父御ててご 、利休どのに代表されている堺衆に、関白のご側近が、みな好感をもっているとは思われますまい」
「それは、もちろんでござりまする。どこの世界にも、ねたみ・・・ や競いはありものゆえ」
「それならば話はおわかりになるはずじゃ。利休居士と関白の間を こうと思うお人があったら、どのような罠がかけられるか」
しかしまだお吟は、腑におちないらしく、
「それと、わが身とどのようなかかわりが・・・・?」
小声で表情を固くしていった。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next