〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/11 (日) 東 を め ざ す (十)

「申し上げまする」
と、お愛は言った。
「お言葉に甘えて、寝たまま申し上げまする」
「それがよい。さ、聞こう」
家康は片手をお愛の肩においたまま、片手でそっと涙を拭いた。
(おそらく、これが、この女の最後の言葉になるのでは・・・・)
そんな不安が募って来る。想ったよりも、お愛の病気の重さがしだいに感じ取れるからであった。
そう言えば、この女は並み大抵のことで寝込む女ではなかったのだ。寝込んだときにはもう 「枯れるとき」 と、気のつかない自分のうかつさが憎かった。
「お笑い下さりまするな。あるいはもう、お館さまには、よく心づかれておわすことかも知れませぬゆえ」
「おう、何で笑おうぞ。申してみよ」
「お館さま、ここまでお忍びなされたものゆえ、関白殿下とは、お争い下さりまするな」
「なに!? そ・・・・それが・・・・こなたの願いなのか」
「はい、於義さまをご養子におやりなされ、御台みだい さまをお迎え遊ばされた・・・・若君さまは、御台さまのお子でござりまする」
「ふーむ」
「そのご両家がお争いなされては、今までのなさり方はみんな嘘・・・・それでは神仏がお怒りなされましょう」
「・・・・・・・」
「お館さまのご生母さまも、浜松のお城へお での節、神仏をいつわ っては栄えはないとくれぐれも仰せられました。しかも、お館さまがお忍び下されば、たみ 百姓は戦の苦から救われまする・・・・西からの難題が出ました折には、東へ、東へ・・・・と、お避けなされて下されればと・・・・これもご生母さまと申しあったことでございまする」
家康は黙って腕を組んでいった。
この女から、このようなことを聞こうとは余りにも思いがけなかったが、それもこれもよく考えてみると、自分のうかつさだったらしい。
物言わぬ草木の心を心としようと誓うほどの者ならば、それだけ深く観察の眼も開けているはずであった。
「お許しなされて下さりませ・・・・東へ、東へ・・・・そうお願い申しておこう・・・・考えたとで恥ずかしゅうなりました。そのようなことにお気づきないお館さまではない・・・・これは、あるいは、若君さまのお身の安泰あんたい を願う、お愛の煩悩ぼんのう ではなかろうかと・・・・それで、途中で口をつぐんだのでございまする」
「お愛!」
「許して下さりまするか。心の戒めを破りました」
「よくぞ申した。こなたの言うとおりじゃ」
「もったいない・・・・お許しくださりませ」
「が・・・・案ずるな。家康もな、そのつもりゆえ、こうしてこの城へ移って来たのじゃ」
「それゆえ恥ずかしゅう・・・・」
「いや、そうではない。神仏を偽る者に栄えはないの一言、肝に銘じて覚えておこう。家康ばかりでない長どのにも、天下てんか びと になるならぬは別として、天下人の心で生きよ。民百姓と神仏を怖れよと、よく申し聞かせておくとしよう」
そこまで言うと、お愛の方はいく度も小さくうなずいて眼を閉じた。
双の眼窩がんか に、ポチリと涙がはみ出ている。
疲れきったと見えて、すぐに小さな寝息になった。
家康はまだその寝顔から眼をそらさない・・・・

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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