〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/11 (日) 東 を め ざ す (十一)

家康が、そっとお愛の方の部屋をぬけ出したのは、寝息の深くなるのを確かめてからであった。
彦左衛門の言うとおり、もはや本復ほんぷく はおぼつかない。
そう思うとすぐに立つのは不安に思え、いれば眠りをさまたげようし・・・・と、思い迷った末であった。
(そうか、お愛の眼はそこまで届いていたのか・・・・)
部屋を出ると、家康は、そのまま廊下のはずれまで来て、わが居間へ向けて開いた縁側で庭下駄げた をさがしていった。
彦左衛門が、姿を見つけて近づいて、下駄をそろえたが声はかけなかった。彼もまた黙ってあとからついて来る。
家康は庭へ出ると、いずれも小さく芽を出したかえでやなぎ 、桜、梅と見ていって、それから先に大きくそびえた富士を見上げた。
「平助」
「はい」
「お愛は、これらの庭木であったら、何であろうな」
「は?」
「桜か、梅か・・・・それとも柳か」
「松でござりまする」
と、彦左衛門は答えた。
「みまかれましたら、そのかたわらに松をお手植えなされておあげなされませ」
「ん・・・・・」
「すると、毎年一度、見えるような見えないような、煙るような花をつけましょう」
家康はわざとそれには応えなかった。彦左衛門の眼にも 「助からぬ」 と見えているのがわかっただけに、軽く口は開けなかった。
またしばらく歩いて立ちどまって、
「平助」
「はい」
「このあたりの木々は、みな、東へ向けて枝を張っている。東と南・・・・西へは少しも張ってはおらぬわ」
彦左衛門は首を傾げて、
「草木はみなそうでござりましょうが、 のあたる方へしげる」
「すると、お愛の松も東へ繁るか」
「は・・・・? 何と仰せられました」
「いや、気がつかなんだと、そちにも詫びているのじゃ。あのように重うなっていようとは心づかなんだ」
「お喜びなされましたろう。さすがは西郷どののお血筋、見上げたご気性のお方であったが!」
「ん・・・・」
「お館さま、何を見つめておわしまする」
「富士じゃ」
「今日の富士なら格別のこともない。空の色が冴えませぬゆえ」
「わしはあの富士に向こうて、この城の広間の縁から尿いばり を放ったことがあったが・・・・」
「ああ、お館さまが、人質におわしたころに」
「そうじゃ。三河の宿なしと、口々にあざけられておるころに・・・・それはいまこの城に住もうておる」
「ご出世なされた感慨でござりまするか」
「笑うな平助。その反対じゃ。あれから長い年月を経て来たが、わしはいまだに宿なしなのではないかと思うたのじゃ」
彦左衛門はまた首を傾げたが黙っていた。
そう言えば、人生はみな宿なし、ただ、はかない旅を続けているのかも知れない・・・・

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ