〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/11 (日) 東 を め ざ す (九)

「なに、お願いがある。と申したのか・・・・?」
家康が聞き返すと、お愛はハッとしたように口をつぐんだ。
あるいはそのつぶやきは、お愛の意志を裏切って口を いた事だったのかも知れない。おび えたように視線をまた桜の枝の戻して、それから、かす かに首を振った。
「願いがあるなら申してみよ。遠慮はいらぬ」
そう言ってから、自分の願いごとなど、かって一度も口にしたことのないお愛の性格に思い至ると、家康は胸をしめつけられるような哀れさを覚えた。
(この女にも、言いたいことはたくさんあったに違いないのに・・・・)
それを黙って慎み押えて生きて来た。それが病みついた気の弱りから、うっかり甘えて口にだしてしまったらしい。
その様子が察せられるだけに家康は、もう一度うながさずに入られなかった。
「お愛、こなた何か言いたい事があるのじゃ。いや今までもあった。が、それをじっと押えて来た・・・・よい。こんどだけは聞いてやりたい。申してみよ」
お愛の方は、まだ怯えたように黙っている。
「水臭いぞお愛、こなたはたしかにお願いがあると申したはずじゃ」
「お館さま・・・・」
「おお、申すか。聞こう」
「このまま何も聞かずにおいて下さりませ。お愛はうっかり、今日まで守って来た心のいまし めを、破るところでございました」
「なに、戒めじゃと?・・・・」
「はい、あの桜の花のように・・・・いいえ、桜ばかりではありませぬ。もろもろの木々や草花のように・・・・」
「わからぬ。何のことじゃ?」
「木々や草花は、どのように辛いこと、して欲しいことがあっても物は言いませぬ」
「それはそうじゃが・・・・」
「そして、春が来れば、足りないものは足りないままに、しかし力を尽くして咲き出まする」
「ふーむ。するとこなたは、それを手本に生きて来たと申すのか」
「はい、そうすることが、お館さまのため、若君さまのためと思うて心の戒めに・・・・それゆえ、さっきのことはお聞き流し下さりませ」
家康は、思いがけないお愛の言葉に、思わずこれも桜の枝を見直すのだった。
なるほど植物には餓えてもかわ いても意思表示の自由はない。かえり みられてもみられなくても、ひっそりと咲き、ひっそりと実って、しかし渇きが募れば黙って枯れる・・・・
(この女はそうした生き方を、心の戒めとしていたのか・・・・)
家康は、このときほどお愛がいじらしく、哀れに見えたことはなかった。
(植物の心で生きて来た女・・・・)
しかしその女もやはり人の子だったのだ。ふと口をすべらして、それを恥じる悲しくも慎ましい女だったのだ・・・・
「お愛、そう知ってわしはなおさら聞かねばならぬ。こなたのたった一度の願い・・・・聞かぬうちはここを起たぬぞ。さ、申してみよ。な、家康の方からそれをこなたに頼むのじゃ」
お愛はまた、おびえたように見廻し、それからそっと起き上がろうとする。
「寝たままでよい。寝たままで・・・・」
あわてて肩へ手をかけて、家康は自分の頬がいちどにどっと濡れてゆくのを意識した。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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