「なに、お願いがある。と申したのか・・・・?」 家康が聞き返すと、お愛はハッとしたように口をつぐんだ。 あるいはそのつぶやきは、お愛の意志を裏切って口を衝
いた事だったのかも知れない。怯
えたように視線をまた桜の枝の戻して、それから、微
かに首を振った。 「願いがあるなら申してみよ。遠慮はいらぬ」 そう言ってから、自分の願いごとなど、かって一度も口にしたことのないお愛の性格に思い至ると、家康は胸をしめつけられるような哀れさを覚えた。 (この女にも、言いたいことはたくさんあったに違いないのに・・・・) それを黙って慎み押えて生きて来た。それが病みついた気の弱りから、うっかり甘えて口にだしてしまったらしい。 その様子が察せられるだけに家康は、もう一度うながさずに入られなかった。 「お愛、こなた何か言いたい事があるのじゃ。いや今までもあった。が、それをじっと押えて来た・・・・よい。こんどだけは聞いてやりたい。申してみよ」 お愛の方は、まだ怯えたように黙っている。 「水臭いぞお愛、こなたはたしかにお願いがあると申したはずじゃ」 「お館さま・・・・」 「おお、申すか。聞こう」 「このまま何も聞かずにおいて下さりませ。お愛はうっかり、今日まで守って来た心の戒
めを、破るところでございました」 「なに、戒めじゃと?・・・・」 「はい、あの桜の花のように・・・・いいえ、桜ばかりではありませぬ。もろもろの木々や草花のように・・・・」 「わからぬ。何のことじゃ?」 「木々や草花は、どのように辛いこと、して欲しいことがあっても物は言いませぬ」 「それはそうじゃが・・・・」 「そして、春が来れば、足りないものは足りないままに、しかし力を尽くして咲き出まする」 「ふーむ。するとこなたは、それを手本に生きて来たと申すのか」 「はい、そうすることが、お館さまのため、若君さまのためと思うて心の戒めに・・・・それゆえ、さっきのことはお聞き流し下さりませ」 家康は、思いがけないお愛の言葉に、思わずこれも桜の枝を見直すのだった。 なるほど植物には餓えても渇
いても意思表示の自由はない。顧
みられてもみられなくても、ひっそりと咲き、ひっそりと実って、しかし渇きが募れば黙って枯れる・・・・ (この女はそうした生き方を、心の戒めとしていたのか・・・・) 家康は、このときほどお愛がいじらしく、哀れに見えたことはなかった。 (植物の心で生きて来た女・・・・) しかしその女もやはり人の子だったのだ。ふと口をすべらして、それを恥じる悲しくも慎ましい女だったのだ・・・・ 「お愛、そう知ってわしはなおさら聞かねばならぬ。こなたのたった一度の願い・・・・聞かぬうちはここを起たぬぞ。さ、申してみよ。な、家康の方からそれをこなたに頼むのじゃ」 お愛はまた、おびえたように見廻し、それからそっと起き上がろうとする。 「寝たままでよい。寝たままで・・・・」 あわてて肩へ手をかけて、家康は自分の頬がいちどにどっと濡れてゆくのを意識した。 |