すでにお愛の方は、精も根
も尽き果てた人に見える。 そう言えば、浜松からここへ移転の途中で、血を吐いたと聞かされたことがある。しかしこれほどとは思わず、家康は見舞う代わりに奥の者たちが、新しい城での躾
けに、慣れるまで、充分注意するようにと、彦左衛門をもって命じさせたのであった。 「お館さま・・・・」 と、お愛は言った。 「お許しなされて下さりませ」 家康はびっくりして顔を近づけ、 「何を申すぞ、無理をさせ通したわしが悪いわ」 「いいえ、いちばん大切な、こんどのご移転に・・・・身体が弱うて・・・・お役に立たず、お許しなされて下さりませ」 「お愛・・・・」 「はい」 「こなたそれを心底から申すのか、忙しさにとりまぎれ、見舞うてもやらぬことへの怨みではないと申すか」 こんどはお愛の方が、びっくりしたように眼を見張った。 その表情の変化だけで、それが、皮肉や怨みの言葉ではなく、この女の心底からの声とわかった。 「お館さま!」 「おう、何を言いたいのじゃ。あ、涙などこぼして・・・・動くな、拭いてやろう」 「許す・・・・と、一言、おっしゃって下さりませ」 「何をこだわるのじゃ、許すも許さぬもあるものか。こなたは一心に働きとおした」 「いいえ・・・・いいえ、許すとおっしゃって下されねば、お愛は切
のうござりまする」 「これはいよいよおかしなことを。なぜじゃ。どうしたのじゃ」 「こんどのご移転・・・・お館さまや、若君のご一生に、いちばん大切なとき・・・・と、わかっていながら弱さのために・・・・」 「その儀か。その儀ならば許すとも。許すぞお愛・・・・」 「ありがとう存じまする」 家康は、まだ女の言おうとする言葉の奥の意味が分らず、 (病のために、取り乱して・・・・) そう解してお愛の手をとってやったのだが、お愛は、その手に甘えてすがりはしなかった。 そっと額に押しいただいてから、冷たいとも見える几帳面さではなしていった。 「これで安堵いたしました。お先に浄土へ参れまする」 「たわけたことを!
まだこなたは若い。病に負けるな。名医も妙薬も世にはある。気が大切じゃ」 しかし、お愛はそれを聞いていないようだった。そっと視線を部屋の棚の隅にうつした。 そこに一本、咲きかけた桜が古伊賀の種壺らしい素朴な陶器に投げ入れられていた。 「のう、春じゃぞお愛。あのように万物に花の咲く春・・・・春は、人間の精気もまたおのずと内から溢
れる時じゃ。気丈夫ならばきっと治る。わしもこれからときどき見舞うてやるほどに・・・・」 それもまた聞いているのかいないのか、しばらくじっと花に見入って、 「お願いがござりまする」 聞きとれるかとれないかの、か細い声でつぶやいた。 |