〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/11 (日) 東 を め ざ す (七)

家康は、しばらく黙って撫でるようにお愛の方を見つめていった。
浜松の城で、がじめてお愛を見かけたときの、あの愕きと若さとが昨日の事のように想い出された。家康にとっては初恋の女、飯尾豊前ぶぜん の後家の幽霊・・・・そんな気持で胸をおさえて見惚れていったのを覚えている。
そのときはたしかに焼け残った老梅にまっ白な花が、五、六輪、吹きつけられた雪のように咲いていて、お愛はまだ十九歳の若さであった。
すでに して子を産んでいる女 ── そんな陰はどこにもなく、おずおずと家康を見上げたまなざしに新月の匂いがあった。
家康はふと視線をそらして、
(わしはいったい、この女に何をしてやったであろうか・・・・?)
それを想い返さずにはいられなかった。
自分では、心のそこから愛したのは、この女ひとりであった・・・・そんな気持で接していながら、実は苦しめ通して来ていたらしい。
その証拠に、肩はとがり、首は細まり、胸はしぼみ、血はうせてしまっている。
(この女は奥のことを、黙って任してよい女・・・・)
そうした信頼は、女にとって果たしてそのまま れられる幸福であったかどうか・・・・
信頼と言う言葉のおかげで、平然と無視して来ている。
於義丸の母の於万おまん の方や、築山つきやま どののように、うるさくまつわり着いたり、反抗したりする様子はみじんもなく、離せば黙々と働き、抱けばうっとりと眼を閉じる。
誰からも親しまれ、誰にもうや まわれていながら、それを誇ろうとする様子はなく、いつも遠くで家康をはばかりながら見守って来ていた女・・・・
男はそうした女をしだいに無視して、もっと手数のかかる小悪魔に心を惹かれるものなのだろうか・・・・?
もしそうだとすれば家康は、償い難い過ちをお愛に強いて来ていたことになる。
「お愛・・・・」
「は・・・・はい」
「苦しそうじゃ。やすめ、横になってよいぞ」
「はい・・・・でも・・・・」
「よいのじゃ。そなたが起きていると、わしはすぐに起たねばならぬ。しばらく話してゆきたいゆえ、身を横たえよ」
そう言いながら侍女に眼くばせすると、
「お館さま、それがしはこれにて遠慮いたしまする」
大久保彦左衛門はそっと部屋を出て行った。
お愛の方はもう侍女の介添かいぞ えをしりぞけはしなかった。
おとなしく寝かされて、枕に右頬をつけたまま、またたきもせずに家康を見上げている。
「苦しいか」
「いいえ」
「医師は、何と申したぞ」
「無理はせぬようにと申されました」
「無理はせぬようにと・・・・」
家康はこれも相手から眼を離さず、
「無理をし通したのう、こなたは」
そう言うと、急に胸元へ切ないかたまりがこみあげた。
(これほど重いとは知らなかった! 許してくれ・・・・許して・・・・)

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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