「長どのが、わすに元を正して末を清めよとか。小癪
なことを申したものじゃな平助」 彦左衛門は笑いもせずに家康から視線をそらして、 「正室の御殿を建て忘れてあるようでは、これから東へ志されるお館のお身が案じられるというのかも知れませぬなあ」 「わかったわかった。が平助、あまり子供に妙な知恵はつけるなよ。御台所の御殿を建てて、それからお愛を見舞うてやろう」 「見舞うて下されても、もう手遅れかも知れませぬ」 「なにッ、そのように重いのか」 「それをご存知ない・・・・それが若君には淋しかったのかも知れませぬなあ」 「フーム。そちの口は憎い口じゃ。が、そうか、するとまた胸が痛むと申すのか」 「心身とも、お家のために捧げ切った・・・・お子たちのことから、御台所さま京よりのお下がりのこと、奥の取り締まりなどで精一杯のところへ、お館さまの飽きもせぬ側室あさりでござりまするからなあ」 「平助!」 「これもひとり言で。ひとり言を何人
によらず、お叱りなさらぬがよろしゅうござりましょう」 「よし、今すぐ見舞うてやろう。医師を呼べ」 「医師はいりませぬ」 「なぜじゃ」 「医師に不足はしておりませぬのd、不足しておるのはお館さまの労
りだけ・・・・」 「口の減らぬ奴じゃ。来い! そちも」 「お伴
いたしまするが、話が込み入りましたらお命じなくとも退出いたしまする。不足しておりますのはこの平助の顔ではござりませぬゆえ」 家康は応えなかった。そう言えば、もう四、五ヵ月も西郷の局のもとへは訪れてやらなかった。 あまり丈夫でないと見え、細い体でしかしいつも忙しそうに奥の指図に立ち働いている。その気負った姿を見ていると、訪れて気を使わせてはかえって疲れるであろうなどと、ここでも身勝手な独断で、近ごろではおもにお竹
の方 とお牟須
の方のもとで夜を過ごした。お竹の方は武田の遺臣で、市川
十郎左衛門尉昌永の娘、お牟須の方は三井
十郎左衛門吉正 の娘で、どちらも西郷の局のお愛の方よりは若かった。 (なるほど言われてみると男はわがままなものかも知れぬ) むっつりと従いて来る彦左衛門の眼をムズ痒く背に感じながら、ここは新しい材木と古い材木の入り混じったまま、壁の香りだけま新しい長局と向かいあったお愛の部屋の前に立った。 お愛の侍女がびっくりして、 「お館さまのお渡りでござりまする」 そう言うのを軽くおさえ、 「そのままでよい。臥
せっておるのであろう。そのままでよい」 家康はそっと板戸の奥をのぞいてシーンとなった。やはりあわてて起き出している。 その肩が異様に尖
り、乱れた髪の、二筋三筋えりあしにまつわりついて、熱っぽく汗ばんでいるのがよくわかった。 「病と聞いてやって来た。なぜ、こなたの方からも知らせぬのじゃ」 「取り乱しておりまする。阿里
、早くお香 を」 お愛の方は侍女に命じてから、これも」長松丸を想わす几帳面さで、きちんと一礼していった。 |