長松丸はもう一度几帳面に一礼して出て行った。どこか、覇気の不足を想わす歯痒さの裏に、妙な冷静さと頼母
しさを感じさせる。 (これからの世は、この子でよいのかも知れぬ・・・・) 長松丸と入れ違いに大久保彦左衛門が入って来た。いぜんとして彼の表情には不満が大きくあぐらをかいている。 「平助、こなたも長どのに知恵をつけた口じゃな」 彦左衛門は聞こえぬふりをして、 「今年は病人にはこたえる気候でござります」 「なに。病人・・・・?
誰が病人なのじゃ」 彦左衛門は、この駿府の城内に住まうようになってからは、お側衆の一人にあげられているのだが、甥
の忠隣 とは違って、どこかに圭角
があり、つとめて本多正信を避けようとする風があった。 正信の才子じみたところが性格的に反撥を感じさせるのであろう。 家康はそれでよいのだと思っている。それぞれ違った欠点を持つ者は、互いに牽制
もし合うがまた磨き合いもするものだった。 「誰が病人とはおかしなことをおっしゃりまする。ご存知ないのでござりまするか」 「知らぬの、誰が病気じゃ」 「西郷の局にござりまする」 彦左衛門は頬をふくらましてそう言うと、 「それゆえ若君も心細くおわしましょう。ご生母は患
われ、義母の御殿は建てて貰えぬ・・・・」 「ふーむ」 「と言って、あの行儀のよいお育ちゆえ、不平は仰せられず・・・・お館さまはご存知なし・・・・」 「平助」 「なんでござりまする」 「もの言うときはな、もう少しわかりよう申すものじゃ。御台所
の御殿は建てると申した。あとは西郷の局か・・・・お愛の加減が悪いゆえ、見舞うてやれとこう申すのか」 「いいえ、そうは申しませぬ。それでは主君に指図したことに相なりまする」 「フーム、なるほど、そうなるかの」 「ご主君には指図はなりませぬので、時々ひとりで愚痴を申しまする。それがお耳に入ったらお許しを願うまでのことで」 「お愛はそのように悪いのか?」 「と、仰せられると、ほんとうにご存じないのでござりまするか。これは一大事じゃ」 「一大事・・・・」 「少なくとも西郷の局は、お世継
ぎを挙げられただけでなく、浜松ご移転の折からの、お家の為には忘れてはならぬ大切なお方。そのお方のご病気も知らず、新しい側室どもにうつつをぬかしておわしたとなれば大きな手抜かり・・・・そのようでは老臣、功臣のお扱いも・・・・」 「控えよ平助!」 「はいッ」 「いまのもひとり言か。ひとり言にしては声が大きすぎるわ。たわけめ」 「お耳に入りましたらお許しを」 「すると、長どのが淋しがっていた。それでそちが知恵をつけたとこう申すのか」 彦左衛門は乱暴にかぶりを振った。 「何のわれらの入れ知恵でござりますものか。若君が見かねてのご諌言
・・・・もとを正して末を清めよのご才覚でござりましょう」 家康は舌打ちして、それからおかしそうに笑っていった。 |