〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/09 (金) 東 を め ざ す (一)

家康は、秀吉の征西を前にして十二月四日に駿府城すんぷじょう に移った。
大坂から帰ったのが十一月十一日、それからわずかに二十三日目の移転なのだからあわただしかった。むろん新築する時間はなく、修理も思うに任せなかったが、しかし感慨は無量であった。
かってこの駿府の城下、少将しょうしょう 宮町みやまち には、悲しい過去の思い出が積まれている。
「── 三河の宿なし」
口々にののし られた屈辱の山河は、いまは彼の所有であった。
今川義元、氏真うじざね 父子の手から武田信玄のものとなり、いままた秀吉と提携ていけい した家康の、心ならずも東に向わねばならなくなった居城となる・・・・
建物も山河も語らなかったが、語る以上の感慨を覚えさせた。
さして大きな城ではない。縦六丁、横五丁、天守の土台は二十八間四方。参重にまわした堀ぎわに、それぞれ長屋や侍屋敷を建てつらねて、そこに竹越たけこし 山城やましろ若林わかばやし 和泉いずみ 、大久保彦左衛門、板倉勝重、安藤帯刀たてわき 、永井右近大夫うこんのだいぶ村越むらこし 茂助もすけ 、西尾丹波たんば 、本多正信、水野因幡いなば らなどを住まわせる予定であったが、正月が迫っているので、四日の移転に従った者は大久保忠隣ただちか 一人であった。移るとすぐに家康は、臨済寺りんざいじ雪斎せつさい と祖母の華陽けよう 院の墓に詣でた。
御屋みや わた りの祝言 (移転の式) は前に吉日きちじつ を選んで済ませてあったので、移るとすぐに侍屋敷の普請と町割りにかかっていった。
浜松城の守備は菅沼すがぬま 正定まささだ に任せ、駿府の新しい奉行には板倉勝重があげられた。
駿府の城下ではまず浅間宮せんげんぐう の造営と、父広忠ひろただ のために手越てごし にあった報土ほうど を、みや崎町さきまち に移す工事が開始され、続々と家臣たちが移って来ると、こんどは春の富士を仰いでたか 狩りに名を借りた攻防双面の猛訓練がはじめられた。
秀吉が九州征伐を終わって帰って来るまでに、家康もまた新城を自由に活用できるよう、道路、駅伝のことはもとより、あらゆる面からの設備と演習を完了しおくつもりであった。
こうして、正月、二月、三月と、あわただしい時が流れて、駿府の町から阿部あべ がわ の堤へかけて、いっぱい桜が咲きだしたころには、松平家忠の奉行する二の丸の造築もほぼ完成に近づいていた。
その日は朝から細い雨が降りだして、わずかに芽ぐんだ若葉の緑が、本丸の庭に甘い匂いをしみこませていた。
「申し上げます。若君長松丸さま、ただいま馬場より立ち帰られて、お目通り申したき旨、申し来られておりまする」
家康は机上にひろげていた報土寺の縄張り図から眼を離して、
「これへ通せ」
そう言ってから改めて、取り次いで来た侍を見直した。
「おお、平助へいすけ か。こなたも鹿を喰べてみたか」
「は、お館さまの射とめなされた田原の鹿、たしかに頂戴ちょうだい しました」
「どうじゃ美味うま かったか」
「一向に・・・・」
大久保彦左衛門は無愛想にかぶりを振って、
「若君をご案内いたしまする」
怒っているような表情で、さっさと居間を出て行った。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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