家康は、改めて秀吉を仰ぎ直した。 秀吉が怖れていたのは家康一人・・・・とは、何という真っ正直
な告白であろうか。人生は、ある意味では怖
え合った人間同士の対立で、勝利者とは多くその怖えを相手に見せぬものの謂
であった。 そのためにこそ 「我慢」 もし、 「恫喝
」 もし、 「平然」 さもよそおい、 「嘘」 もかさねる。 ところが秀吉は、それらの空しさを突き抜けて、平然と 「怖え」 を語り、平然と 「恫喝」 し得る境地に到っているというのだろうか・・・・? 家康は笑いながらおし返した。 「怖い怖い、殿下の殺し文句は」 「なに、わしの殺し文句じゃと・・・・!?」 「はい、さっきは家康の殺し文句などと仰せられたが、家康のなど、足もとへも及びませぬ」 「ほう、これはまた、おかしなことを言う義弟じゃ。わしは正直に、わしの怖れている者はお許じゃと・・・・」 「それ、それが嘘!
何の、ほんとうに怖れてなどおわすものか、怖れておわさぬ証拠に、怖い怖いなどと言われる」 「ワッハッハ・・・・」 秀吉は額をたたいて笑い崩れると、また手をのばして家康の肩にかけた。 そろそろ酔っている。酒の匂いと体臭とが、木の香にまじって、あやしく酸っぱい生活の臭気に変わりかけている。 「フーム」
と、秀吉は言った。 「この部屋は、杉の青葉に尿
をかけた匂いがするぞ」 「そのはずで、いい年の武骨者が二人、汗ばんだ体を寄せ合って酔うておるのでござるゆえ」 「ワッハッハ・・・・そうじゃそうじゃ。これが天下の匂いじゃなあ」 「では、天下のためにもう一盞
」 秀吉は素直に盃を受けてから声を秘めた。 「ときに、お許は、女子
はどうじゃ」 「大好物でござりまする」 「そうか、これは、わしのい手抜かりだったかの。宰相は堅物
で話にならぬ。わしが指図をしておくべきだった」 「しかし、今宵は平
に」 「なぜじゃな。遠慮はいらぬぞ」 「いやいや、根が大好きゆえ、あれこれと持ちすぎましてな。せめて、旅寝だけは、一人でのうのうといたしたい」 「ワッハッハ・・・・そうか。これはやられたわ。そうか・・・・実はの」 秀吉はいよいよ顔を家康に近づけ、 「お許の相手まで気づかなんだが、こんどお許の世継ぎに土産
をやろうと思うての。ところが、この女子が素直にわしの言うことを訊きおらぬ。そこで腹を立ててな、わしが摘
んで・・・・」 と、言いかけてから、ちょっと、あたりを見まわした。 「ハッハッハ・・・・できなかった話はよそう。できる話がよい。そうじゃ、できる話がの・・・・」 つぶやきながら家康のうしろに控えている新太郎に眼を据えた。 「義弟よ。この若者は誰が伜じゃ」 「は・・・・これは、わが家の、鳥居
元忠 が伜、忠吉の孫にござりまする」 「フーンそうか。これでできた!
この若者はの、見どころがあるぞ! あの思い太刀を捧げたままもう二刻も身動きせぬ。気力充実、一分の隙も惰気
もなく、わしの若いころを見ているようじゃ。そうじゃ。これがよい。これこれ、宰相、宰相はおらぬか!こなたの大事な娘を連れて来い。婿話
じゃ婿話じゃ」 と、大声で呼び立てた。 |