〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/09 (金) 両 雄 対 面 (十)

家康は、改めて秀吉を仰ぎ直した。
秀吉が怖れていたのは家康一人・・・・とは、何という真っ正直しょうじき な告白であろうか。人生は、ある意味ではおび え合った人間同士の対立で、勝利者とは多くその怖えを相手に見せぬもののいい であった。
そのためにこそ 「我慢」 もし、 「恫喝どうかつ 」 もし、 「平然」 さもよそおい、 「嘘」 もかさねる。
ところが秀吉は、それらの空しさを突き抜けて、平然と 「怖え」 を語り、平然と 「恫喝」 し得る境地に到っているというのだろうか・・・・?
家康は笑いながらおし返した。
「怖い怖い、殿下の殺し文句は」
「なに、わしの殺し文句じゃと・・・・!?」
「はい、さっきは家康の殺し文句などと仰せられたが、家康のなど、足もとへも及びませぬ」
「ほう、これはまた、おかしなことを言う義弟じゃ。わしは正直に、わしの怖れている者はお許じゃと・・・・」
「それ、それが嘘! 何の、ほんとうに怖れてなどおわすものか、怖れておわさぬ証拠に、怖い怖いなどと言われる」
「ワッハッハ・・・・」 秀吉は額をたたいて笑い崩れると、また手をのばして家康の肩にかけた。
そろそろ酔っている。酒の匂いと体臭とが、木の香にまじって、あやしく酸っぱい生活の臭気に変わりかけている。
「フーム」 と、秀吉は言った。
「この部屋は、杉の青葉に尿いばり をかけた匂いがするぞ」
「そのはずで、いい年の武骨者が二人、汗ばんだ体を寄せ合って酔うておるのでござるゆえ」
「ワッハッハ・・・・そうじゃそうじゃ。これが天下の匂いじゃなあ」
「では、天下のためにもう一盞いつさん
秀吉は素直に盃を受けてから声を秘めた。
「ときに、お許は、女子おなご はどうじゃ」
「大好物でござりまする」
「そうか、これは、わしのい手抜かりだったかの。宰相は堅物かたぶつ で話にならぬ。わしが指図をしておくべきだった」
「しかし、今宵はひら に」
「なぜじゃな。遠慮はいらぬぞ」
「いやいや、根が大好きゆえ、あれこれと持ちすぎましてな。せめて、旅寝だけは、一人でのうのうといたしたい」
「ワッハッハ・・・・そうか。これはやられたわ。そうか・・・・実はの」
秀吉はいよいよ顔を家康に近づけ、
「お許の相手まで気づかなんだが、こんどお許の世継ぎに土産みやげ をやろうと思うての。ところが、この女子が素直にわしの言うことを訊きおらぬ。そこで腹を立ててな、わしがつま んで・・・・」
と、言いかけてから、ちょっと、あたりを見まわした。
「ハッハッハ・・・・できなかった話はよそう。できる話がよい。そうじゃ、できる話がの・・・・」
つぶやきながら家康のうしろに控えている新太郎に眼を据えた。
「義弟よ。この若者は誰が伜じゃ」
「は・・・・これは、わが家の、鳥居とりい 元忠もとただ が伜、忠吉の孫にござりまする」
「フーンそうか。これでできた! この若者はの、見どころがあるぞ! あの思い太刀を捧げたままもう二刻も身動きせぬ。気力充実、一分の隙も惰気だき もなく、わしの若いころを見ているようじゃ。そうじゃ。これがよい。これこれ、宰相、宰相はおらぬか!こなたの大事な娘を連れて来い。婿話むこばなし じゃ婿話じゃ」
と、大声で呼び立てた。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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