家康の肩を抱いたまま、秀吉はポトポトと涙を落とした、冷静な第三者が見ていたら、それは、鼻持ちならぬ作為の芝居と見たであろう。 が、秀吉はいささかもテレてはいなかった。彼は彼の心情のおもむくままに動いて、その間にみじんの嘘も自覚していなかった。 そして、その小児のような無邪気な行動は、そのまま家康の胸にも徹った。 (この爽やかさはいったいどこから来るのであろうか) これが、柴田
勝豊 を養父に叛
かせ、前田 利家
や佐々 成政
を何の不自然さもなく心服させていった秀吉の性格の謎なのだが・・・・と、そこまで考えて家康はまたひそかに心で恥じた。 ここでは自分も秀吉と同じ程度の無心さにならなければならなかったのだ。その無心さに磨かれた鏡だけが、ハッキリと秀吉の像を映し出して見せてくれるに違いない。 それにしても、まず尊大さが鼻に来る北条
氏政 などとは、何という違いであろうか。 (やはりこれは稀有
の神品じゃ・・・・) 「家康! わしはうれしい」 「殿下! 家康もおなじでござりまする」 「わしはの、いろいろと知恵のある家臣は持っておる。が、心の底から天下を憂
うるほどの器量人は見当たらなんだ」 「褒めすぎてはなりませぬ」 「いやいやそうではない。天下を盗もうとする輩はいくらもあるが、天下を憂うるほどのものはない・・・・と、これは故右府さまの言葉であったが、わしはそれをお許に見出した」 「さ、お酌いたしましょう、もう一献」 「おお呑もうとも!」 秀吉は肩を離すと、手の甲で眼を拭いて、それから始めてテレて笑った。 「ハッハッハ・・・・この喜びは、みんなに分けようのう家康」 「みんなに分ける・・・・と。言わっしゃると」 「こんどお許が連れて来た重臣たちに、みなそれぞれ叙位を願うてやるぞ。酒井忠次、榊原康政など・・・・」 「ありがたい事にござりまする。そうなれば、彼らもいつか大きく眼が開けましょう」 「それからもう一つじゃ。よいか、これでお許の重臣どもも秀吉への疑惑を解くであろう。よいか、お許はみなの前で陣羽織を乞うがよい。わしはそれをお許にやろう。が、お許を九州へは出陣させぬぞ家康」 「それはまた、何ゆえで!?」 「日本で平定せぬのはまだ九州だけではない。お許は、秀吉の留守中、厳として東の方を押えてくれるよう・・・・そう申したら、いちばんホッとして疑惑を解くのはお許の重臣どものはじじゃ。そのくらいのことのわからない秀吉ではない。どうじゃツボであろうが」 「しかし、それでは家康の気が済みませぬ」 「いや、そうではない。心を一つにして天下のことに当たるとなれば、両家の空気の融和が第一・・・・なあに、お許が味方と決まってゆけば九州のことなどは、秀吉が茶の子前に片づくわい」 そこまで言って秀吉はまた楽しそうに笑った。 「わしが今日まで九州征伐をのばしたのは、たった一人、お許が怖かったからのこと。そのくらいのことは百も承知のお許ではないか。ハッハッハッハ・・・・」 |