〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/08 (木) 両 雄 対 面 (八)

それにしても、大政所や朝日姫のことには一言もふれず、しだいに話題を核心に近づける秀吉の奔放ほんぽう な話術は驚嘆すべきものであった。
「何をおいても天下の平定! これが故右府さま以来の、われらの願いじゃ。のう徳川どの、これを離れてはお許もない。わしもない。何の関白くそ らえじゃ。そうであろうが」
「仰せのとおりで・・・・」
「さ、こんどはお許に差そう。ぐっとおやりなされ・・・・そして、お許からこの秀吉に、文句、注文があるであろう。遠慮はいらぬ。二人だけの無礼講での、今夜は何でも申されよ」
「これは恐れ入りました。われらに何の苦情など・・・・」
家康もしだいに余裕を取り戻し、
(今夜はこのまま、秀吉のから んで来るのに任せよう・・・・)
そう決心してゆくと、心がぐっと軽くなった。
「しかし、 ってと仰せあれば、一つだけ所望がござりまする」
「なに、所望・・・・と言わっしゃるか」
「はい、その殿下がいまお召しの、にしき陣羽織じんばおり 、それをこの場で家康に頂戴ちょうだい したいので」
「なに・・・・この陣羽織を?」
秀吉は、家康の心を計りかねたように首を傾げて、
「しかし、これはちと困るのう。わしは関白じゃが、同時に武将じゃ」
「それ、その事でござりまする」
「その事とは?」
「われらがこうして上洛し、胸襟きょうきん を開いてお近づき申したうえは、もはや殿下に二度と陣羽織は着せませぬ」
「な、な、なんと言われる徳川どの! するとこれからの戦は、お許がすると言わっしゃるのか」
「殿下をわずら わすまでもない。家康で充分でござりまする」
「うまい!」
と、秀吉の手が伸びて、ドシンと家康の肩を叩いた。
「わしも口では人に負けぬと自負していたが、今のような殺し文句は考えつかぬ。ワッハッハッハ・・・家康という男は喰えぬ男じゃぞ」
「ハハ・・・・関白殿下も喰えませぬ。褒めるツボをよくご存知じゃ」
「家康どの」
「はい」
「今の陣羽織の件な・・・・それをひとつ、大坂城でやってはくれぬか」
秀吉がいたずららしい声をおとしてささやくと、家康もニヤリとして盃をおいた。
「諸侯列座のおりの方がよろしゅうござりまするか」
「名案じゃぞこれは・・・・と、言うて、よいかの、わしが諸侯の前で、わしを立ててくれよというのも私心からではない。わしとお許の間柄はこのとおりじゃ。しかし、天下のためには、わしはどこまでも関白でなければならぬ」
「そして、家康は左京大夫でござりまする。お案じなされまするな」
「やってくれるか家康は!?」
「そのつもりで出て来ました。天下のために」
「そうじゃ天下のために」
そう言うと、秀吉は、とつぜん家康の肩を抱いた。
太刀をささげて木像のように坐りつづけている鳥居新太郎がビクッとするほど、それははげしく強い抱擁ほうよう であった。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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