家康の一行が京へ入ったのは二十四日の昼すぎだった。 入京までの宿々の饗応は至れり尽くせりで、肩肘いからしている三河武士を少なからず面食らわせた。彼らはみなどこからか秀吉の無礼さなり、陰険さなりを嗅ぎつけようとして、眼を光らせているのだが、そうした気配は全くなかった。 在城の大名は、それぞれみずから丁重
に出迎えたし、不在の者は城代、奉行などの重臣を差し出して慇懃
をきわめた。 何しろ大勢の一行である。 一行の宿泊した所では炊き出す米穀
だけでも並み大抵のことではなかった。それに馬糧の藁
や乾し草から、家康と側近に差し出す魚鳥、入りきれぬ野営の人数のための薪
などまで、心憎いほどの準備であった。 「── これは敵意はないようだの」 「── いかにも、よほど厳
しく秀吉に命じられているものと見える」 「── みなみな、大切な関白の妹婿・・・・本気でそう思い込んでいるのかも知れぬぞ」 「── いやいや、そう簡単に心を許されるな、相手は秀吉という曲者じゃ」 そうした道々の会話も、大津
街道は粟田 口
から京へ入って、両側に群れて迎える民衆の表情を見たときには、何か出し抜かれたような気分になった。 どの顔にも何の警戒も感じられない。文字どおり安心しきった見物人の表情で、それが口々に家康の行列の立派さをたたえている。 群衆の中には公卿
衆の密行もまじり、それらはあるいは三河武士とおなじある種の危惧を抱いての見物かも知れなかったが、彼らもまた何となくホッとした様子であった。 おそらくそれは、信長時代にはなかった空気であろう。これだけの軍勢が京へ入って、しかも市民がいささかも恐怖の色を見せなかったということは・・・・ 家康の眼に映った京の街は活気にあふれていた。 聚楽
と大仏殿の二大工事に加えて、あちこちに町造りが続いている。 信長が本能寺に倒れた天正十年 (1582) 五月の京見物のおりの空気とは、人も大地も町も空も違ったように見えた。 家康は予定のとおり、通り出水下ル町にある呉服ご用の茶屋
四郎 次郎
の館に入り、ここで、警備を三千人にして、あとは出迎えた秀吉の代理、宰相秀長
の指図でそれぞれ寺院に分宿せしめた。 この人数は、京童
の眼にはよほど実数より多く映ったものと見え、多門院
日記 には 「──
家康六万余騎にて在京・・・・」 云々
と記されている。 家康は茶屋の館へ入ると、新調の衣類をささげて出て来た四郎次郎に、 「何かとご苦労であったなあ」 おだやかに声をかけたが、その表情は決して明るいものではなかった。 「ご無事のご入洛
、なにより大慶に存じまする。ただいま、京中の公家
、寺院等から、今宵 の宿所、宰相さまのお邸に、お祝いのため盃台ご持参の使者が、続々と市をなしておりまする」 そう言うと、家康は渋い表情でひろびろと新築された四郎次郎の屋敷を見廻しながら苦笑した。 「おぬしらいくもない事を言うぞ。それはみな秀吉を敬
もうてのことではないか」 |