〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/07 (水) 花 に 唾 す る (十)

「ご老人! やりましたなあ!」
直政は若々しい昂ぶりを見せて、坐る前に口を開いた。
「まさか殿が、このようなことまで命じてご出発なされていようとは知らなんだ、これでなるほど盤石ばんせき じゃ」
作左衛門は口をへの字にしたまま答えなかった。
「いや、みなは寒さを防ぐためと答えましたが、あのお付きの老女がサッと顔色を変えました出でなあ。あの分ではすぐにふみしたた めて差し出す気配じゃ。ご老人、その文は途中で奪うた方がよいのであろうな」
「それには及ばぬ」
「黙って届けさせてよいのでござるか」
「兵部どの」
「なんでござる。それがしはもう少し経ってから文の届く方がよいと思うが」
「お身は、殿が命じてお出かけなされたように言わっしゃったの」
「そうでは、ないのでござるか」
「いかにも」
「では・・・・ご老人の一存か」
「そのとおり」
「それはいかん! それならば、あのような無茶なことは・・・・」
「兵部どの、殿ならばよい事が、作左ならばなぜいかんのじゃな」
「これは、ご老人の言葉とも覚えぬ。殿がご承知ならば、関白から何と苦情を言い出されても心の用意があろう。が突然では申し開きはあるまい・・・・大政所さまを焼き殺す・・・・殿の不利が見えるようじゃ」
「黙らっしゃい」
「なにッ、黙れとは、口が過ぎようぞ」
「過ぎぬ、黙らっしゃい」
作左は同じ事を繰り返してから、
「この城の守備を考えるはわしの役目じゃ」
「大政所のご接待はこの直政の役目じゃ」
「それゆえ、すぐに焼きあげるとは言わぬ。秀吉が殿に怪しい振る舞いをしたら焼くと言うのじゃ。おわかりか・・・・旅の途中で怪しい振る舞いを仕掛けるようならば、すぐに攻め寄せる怖れもあれば、城内から内応者の出る怖れもある。それゆえこれは三河武士の用心じゃ。と、大政所に申し上げさっしゃい。三河武士には、いつでも一分の隙もない。しかし向うに他意がなければただの寒さよけ・・・・ちっとも案ずることはないであろうが」
「作左どの」
「なんじゃ、不服らしい顔をなされて」
「お身は、いささか狂ってござるぞ」
「ほう、兵部どのには、そう見えるかのう」
「用心ならば殿があれだけの軍勢を連れて行かれた。それで充分のはずじゃ、殿の命令ならば格別。威風を見せて、おだやかに話し合おうと考えておわすとき、このような常識はずれの暴挙で難詰なんきつ の種を与えては、殿のご迷惑と思わぬのか」
「思わぬのう」
「思いがけぬことで、狼狽なされたら、それが談合の邪魔になるとは考えぬのか」
「青い!」
「なにが青い」
「井伊兵部少輔直政、くちばしが青い」
「フン、いよいよ老人の頭は狂うておるわ」
「いや青い!」
と、作左衛門は視線をそらして庭先から灰色の空を見やった。
「ご覧なされ、いよいよ風が荒れているわ」
そう言えば、黄ばんだ枯れ葉が軒から小さくうずを捲いて落ちている。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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