〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/06 (火) 花 に 唾 す る (八)

「ご老人、それがしがやって来たのは、火桶ひおけ のことじゃが・・・・」
直政は作左衛門の孤独感に気がつかず、
「大政所の侍女どもが、意外に寒さがきびしいゆえ、みなに火桶を出して欲しいとの掛け合い、一応ご城代のこなたに相談したうえでと思うてやって来たのじゃ」
「火桶をのう・・・・」
作左衛門は何気なくつぶやいて、
「あ、火桶か」 と、言い直した。
「ならぬと仰せられよ。女どもすべてに出して、もし火でも失してはならぬゆえ、この作左がならぬと申したと」
「なるほど、ではそう申そう」
「が、待たれよ兵部どの。侍女どもはまだ若いゆえに出せぬが、大政所はあのとおりの年寄りじゃ。これには、作左はならぬと言うたが、兵部どのが一存にて差し上げる・・・・そう申して下され」
直政はポンと膝をたたいてうなずいた。
「さすがはご老人! なるほど、それがよい」
「部屋のうちが温まるようにの、一つではなく、二つでもなく、三つほど心遣いをしておやりなされ。それから・・・・何事にもよらず、相手に不満があったら、それは作左のせい・・ になされや」
「ハハ・・・・火桶の三つは承知したが、わるいことは老人のせい・・・・そのような卑怯ひきょう な嘘はおれには言えぬ」
「それが用心じゃ!」
作左衛門は忌々いまいま しげに舌打ちして、
「憎まれ役は一人でたくさんじゃよ申したはず。万一大坂へ帰られてから、岡崎では誰も彼も不親切だったと言われるよりは、みんなは親切だったが、作左めが・・・・となればそれが殿のお為になろう。わしは、お身に、卑怯な追従をせよなどと申しているのではない。お家の為に計られよと言っているのじゃ」
「そうか、それならば相分った」
「分ったら、すぐに火桶をおあげなされ」
きびしい声で言って作左はまた黙り込んだ。
自分の孤独の理解できない相手の若さに腹を立て、つい語気をあら くしてしまっているのをかえり みてがっかりしたのだ。
「では、言わっしゃるとおりに」
直政はきちんと一礼して出て行った。
作左が不意に声を立てて笑い出したのはそれから四半刻ほど、顔をしかめて、達磨だるま のようにじっとふすま を睨みつけたあとであった。
「ハッハッハッ・・・・わからぬと言うて、腹を立ててはならぬ事じゃ」
大きくひとりごちながらうなずいて、それから性急に、台所奉行の大沢おおさわ 元右衛門げん えもん を呼びにやった。
そして元右衛門がやって来ると、いつものしかり付けるような口調で、
「飯をしば があろう」
と、吼えるように言った。
「あれをな、二、三百 ほど、大政所の入ってござらっしゃる新御殿のまわりに積み上げよ」
元右衛門はびっくりして、
「あの柴を、何のためにでござりまする?」
「あの老婆が寒いと言うたそうな、柴を積み上げたら風を防げよう・・・・」
「さ、さようで」
「と言うのは表向き・・・・実は上洛した殿に、秀吉めが、ちょっとでも怪しい気ぶりを見せたら、その柴に火を点けて、新御殿ごとそっくり女どもを焼き殺してしまうのじゃ。わかったか」
元右衛門は、しばらくポカンとしてまたたきを忘れていた。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next