〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/06 (火) 花 に 唾 す る (六)

取り乱したと言えば、これ以上取り乱している姿はない。いきなり重臣の前を駆けぬけて、老母に抱きつく朝日姫と、それをよう しておろおろと泣く老母と・・・・
「朝日・・・・」
「母さま!」
しかし考えようによれば、これほど哀しく、これほど切ない真実もないはずだった。
家康も眼をうるましていたし、半眼はんがん のまま石のように坐っている作左衛門の唇もゆがんでいた。
一座の中でも、顔をそむけている者が多く、これで、大政所がニセ者でない事だけは誰の眼にもハッィリした。
と言って、それだけでは決して両家の間が心底から打ち解け合うことにはならない。
家康は、母子だけにしてやろうとして、重臣の紹介を簡単に済ませ、二人を別殿に送り込んでやったのだが、その後の大広間のみんなのささやきはまちまちだった。
「ニセ者でないとわかったとて油断はならぬぞ」
「そうとも、野心のためには、何をするかわからぬのが秀吉なのだ」
「しかし、これがみな計略とすれば、秀吉とは前代未聞の怖ろしい男じゃぞ」
「そうじゃ、肉親の妹ばかりか、母までも殺す気かも知れぬでの」
「それはそうではあるまい。わしが油断ならぬと言ったのは、家中に、第二の石川数正がいるのではないかと言うことじゃ」
「なにッ、それはどうして!?」
「人間、どんな場合にも、母までは殺せぬものじゃ。その母を平気でよこす・・・・よいか・お館を欺して京へ誘き出し、それをどこかで斬ると同時に、第二の石川数正が、三河から秀吉に呼応する、そこで母は助け出せるという見込みだったらどうするのじゃ」
「これはおだや やかならぬ事を言うぞ。誰が第二の石川だというのじゃ」
「例えじゃこれは・・・・裏切り者のあるなしではない。秀吉にもし、あると目星がついておれば、平気で母も送り込めるという事じゃ」
「なるほど、すると、内応者があれば助け出せるというのじゃな」
「出せるとも、その者がわれらの留守中に、みなの妻子を質にとってみよ」
「なるほど・・・・なるほど、これは油断がならぬわ」
本多作左衛門は、そうしたみんなの声を聞きながら、しばらく眠ったように動かなかった。
秀吉の意表を く大胆なやり方は、ここだけではいよいよ曲解の種になる。
第二の石川数正とは、何という不気味な誘惑の罠であろうか。この疑惑癖が根をおろすと、やがて誰も家中に正論を吐く者はなくなって、人心萎縮いしゅく のもとになろう。
(とすると、やっぱり数正は、してはならぬ事をしたのであろうか・・・・?)
数正から内々で、秀吉には、両者提携ていけい 以外、何の野心もなさそうだという知らせがあり、数正の苦心を高く買っていたのだが、事によると、これは手放しで感心してよい事ではないかも知れない・・・・
作左衛門は、みんなが退出していってから、ゆっくりと城内を見廻った。明後日の出発を控えて、家康の居間は早くから暗かったが、大政所と奥方のいる別殿には、夜半すぎてもまだ明々と灯りがついていた。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next