〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/06 (火) 花 に 唾 す る (五)

当然一座には、和気藹々あいあい の笑いがただよってよいはずだったが、シーンと静まり返っている。
おそらくこのはらわた を洗うような童心にみちた会話の一句一句までが、みなひは秀吉の優越につながる、油断ならぬ言葉として心にひびくからであろう。
それにしても、自分は渋くて大嫌いだというチンタ酒を、家康に飲めという傍若無人さはおもしろい。と、作左衛門は思った。あるいは秀吉の、奇想天外な明るさも、この母から受け継いだものかも知れない。
ただ、野菜の手作りを唯一に趣味とする老婆が、黄金の釜の茶などを呑ませられて、玉楼ぎょくろう の中に閉じ込められて困りきっている姿は、人間のせつ なさをさまざまと見せ付けられているようでひどく悲しい・・・・
いやそれよりもさらに悲しいのは、この会話までを、敵意のとばりを隔てて殺気で聞かねばならない、今の三河武士の心かも知れない・・・・と、考えている時に、上気して、すっかりいい気になった大政所は、ついに、みんながギョッとするような脱線をしてのけた。
「わしはの婿どの、三河へやって来たら、殺されはせぬかと思うたのじゃ」
「それはまた、なぜであろう」
「朝日がの、そんな手紙をよこしたからじゃ。あれは親孝行じゃが取り越し苦労で・・・・」
「大政所さまッ」
こんどは柏木が血相変えた。
柏木ばかりではない。水底みなそこ のように静まり返っていた一座を、無言の動揺がおしつつんだ。
「よいわさ」
と、大政所も、少なからずあわてながら、
「したが、いまは安心したぞえ。朝日の間違いじゃとようわかった・・・・こう言うているのじゃからよいではないか。のう婿どの」
家康は笑いながらうなずいたが、これもちょっと度肝どぎも をぬかれた形であった。
ここまで開けひろげに話されると、かえって無気味になって来るのも人間の弱みらしい。
人間に陰謀はつきものと考えている本多正信など、明らかに警戒心をかき立てられた様子で眼を光らしだしている。
「のう婿どの、何もかも正直に話し合うての、親類は仲良くせねばならぬぞえ」
本多作左衛門は、
(これで、湧きかけた和気も帳消し・・・・)
そう計算しながら、これ以上脱線せぬようにと密かに祈った。
折りよくそこへ大久保兵助へいすけ が、奥方朝日姫の到着を告げに来たので、みんなの関心は焦点を変えていった。
「ただいま、浜松より御台所さまご到着でござりまする」
「そうか、すぐにここへ案内せよ」
家康の言うのと、大政所が身をのり出すのとが一緒であった。
「あの、朝日が着きましたとか。それはそれは、まあまあ・・・・」
朝日姫の方でも同じ思いだったと見えて、みなが平伏して迎える形をとりながら、その実、一様に疑惑の眼を光らしている中へ、まるで何かに かれるたもののような姿で駆け込んで来た。
「おお朝日・・・・」
「母上さま!」
もうあたりはほの暗かったが、叫び交わした母子の眼に、見る間にきらめく露だけは、誰の眼にもハッキリと見てとれた。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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