大政所はおよいよ上機嫌であった。 おそらく、滞在中のお側のご用を足すと言った井伊直政の人柄が気に入ったからに違いない。 井伊直政は、表面謹厳そのものだったが、声から動作まで嘘のない誠実さを感じさせる。その印象を考えて作左と家康とで相談した人選で、そのうえ作左は直政に念を押してあった。 「兵部どの、憎まれ者は二人は要らぬぞ。わしがその方へまわるゆえ、お身は後で秀吉に難癖つけられぬよう、充分老婆に心してあげて下され」 したがってこの場合の上機嫌は、家康や作左衛門をホッとさせるものだったが、列座している人々は顔をしかめた。 「これはこれは遠路のところようこそ。お疲れと思うて、わざと挨拶
は遠慮しました」 家康の口上に何度も何度も頭を下げながら、上段に並んで坐る、 「お案じなさるなや婿どの」 大政所はすっかり上気して、キョトキョトとあたりを見廻した。 「そにおうちにはの、もっともっと、よいお城へ住めるようになりますぞえ。こなた様は福相じゃで」 「と、言わっしゃると、この城では粗末すぎますかな」 「いいえ、いやいや、はじめのほどはの、誰でも少しは足りぬほどがよいものじゃ。それが心の励みとなる」 「言わっしゃるとおりで」 「ほんに、もの要りを掛けて済まなんだ。わしのために、わざわざ新しく座敷を建てて下されたのじゃなあ」 「お気に召しましたかな」 「おお召しました。召しました。わしはの、大坂の御殿は、あまり立派で、もったいなすぎて息がつまる。ここへ泊りに来てホッとしました」 家康は明るく笑った。 「それは何より、家康は明後日早朝京へ向けて出発いたしますれば、御台所と、ごゆるりおお物語り下さるよう」 「はいはい、それはもう・・・・したが婿どの」 大政所はついて来た老女の柏木が、あまり脱線してはと、ソッと袖をひくのを笑って振りはらい、 「わかっているがな」
と、たしなめてから、 「あまり大きな城の御殿に住まわせられては、迷惑なものじゃぞえ」 と、家康に向き直った。 「長浜でも、姫路へいんでからでも、わしは嫁女や娘に頼んでの、城の中で畑作りをやらせて貰うた。それが、大政所というになったで、もうならぬとみなが言わっしゃる。庭に空地があるのにもったいのうてのう。それに、野菜はの、手作りがいちばん美味
いものじゃぞえ」 「大政所さま」 と、また柏木が袖をひいた。 「お土産のご披露
をいたしとうござりまするが」 「まあ後でよいわの」 大政所はもう一度手を振って、 「そうじゃ婿どのは、チンタ (葡萄酒)
という酒 をのまっしゃったことがあるまい」 「チンタ・・・・?」 「そうじゃ。黄金
の釜 でお茶をたてる、それ宗易
どんが好きな酒じゃ。わしゃ渋うて大きらいじゃがの、婿どのは呑まっしゃるがよい」 本多作左衛門は、この会話の与える空気を読みとろうとして、じっと一座を見つめている・・・ |