「何の、弥八ずれにわかるものかッ」 作左衛門より一足先にここへ来ていた大久保忠世が吐き出すように言った。 大久保忠世は本多正信を虫が好かぬらしく、何かというとずけずけとたしなめる。 正信は眼だけで陰性に反撥するのが常であった。 「あのぼくとつさ、あの人の好さ・・・・わざわざニセ者をよこすほどなら、もっと隙のない喰えぬ女を選ぶわい」 「ところが、それが謀
りごとかも知れぬ。いかにも尾張中村の百姓の出らしいという事が」 「弥八、こなたは腹黒い男じゃな。浜松から奥方さまが着けばわかること。賭けようか」 「いいえ、仮にも奥方さまのご母堂と名のつくお方、賭けなどはもってのほかで」 家康は苦笑して二人を押えた。 「もうよい、作左、大広間の用意はよいか」 「万事、手抜かりなく」 「では、わしが別殿まで出向いてご案内申そう」 「それはおやめなされませ」 「というと、作左も弥八と同じ組か」 作左衛門は不機嫌に首を振った。 「真偽などはいずれでもよい。が、殿の方から軽々しく出向くことはならぬと申すので」 「ほう、相手が関白のご母堂でもか」 「いかにも。こんどのことは、すべてこれ関白の都合
ですること。こちらがすすんでしている事ではない。後々までその点をあい昧にしてはなりませぬ」 「ふーん手
酷 いことじゃの」 「殿!
この事は、ここだけではござりませぬぞ。ご上洛なされても、決して殿の方から先に動いてはなりませぬ。上洛したとお届けあって、あとは知らぬ顔の半兵衛がよい」 「よけいな指図、わしを幾つだと思うておるぞ」 「ハハ・・・・、もうけじめのつかぬお年ではござりませなんだなあ」 「ひどい爺
め、では、迎えには行くまい。その方もう一度参って、大政所の支度
がよくば知らせて参れ」 「かしこまりました」 作左衛門は再びムッツリと立って行きながら、胸のうちではしきりに家中の空気に指を繰っていた。 大政所を直接見た大久保忠世は真物と信じたようだが、まだ見ない本田正信は疑念を抱いている。それにしても、何という根深い家中の反感であり不信であろうか。 この両家の反目は、秀吉が才気に任せて意想外の手を打てば打つほど、生
一本の三河者を迷わせる。 すでに石川数正はその犠牲になっているのだが、その事すら三河者にはかえって不信と怨みを深めさせる結果になった。 (これはよほど考えねば・・・・) が、その作左衛門も、いよいよ大政所を広間に案内し、敵意にみちみちた人々の目の前で、家康と大政所の神韻
縹渺 とした会話を聞くに及んで、自分までが美しい花に唾している救い難い人非人
のような気がしてならなかった。 大政所は、広間の正面に坐っている家康を見ると、「ほう!」 と、眼を丸くして、案内して来た井伊
直政 に言った。 「これが婿どのか・・・・まるで大黒天のようなよい人相じゃ!
これはうちの、殿下よりも分限者
になりそうじゃぞ」 先導して来た井伊直政は困ったように頭を下げた。 |