〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/12/03 (土) 花 に 唾 す る (二)

大政所の接待役にあげられている井伊いい 兵部輔ひょうぶのしょう 直政なおまさ が、すかさず進み出て案内に立った。
酒井さかい 忠次ただつぐ大久保おおくぼ 忠世ただよ榊原さかきばら 康政やすまさ本多ほんだ 忠勝ただかつ永井ながい 直勝なおかつ らがいっせいに首をあげて顔を見合わせたのは、十八人の侍女を従えた大政所の行列が、まだ式台に上がりきらぬうちであった。
どの顔も笑いをこらえた意外さをたたえていた。大政所は、彼らが疑ってやまなかった 「偽せ者 ──」 であるにしては、余り土の香の勝ちすぎた何の気取りもない老婆であった。ひと眼で過去の勤労は並みなみならぬものとわかり、これが時めく 「関白 ──」 の母堂かと思わず失笑しそうな人の好い気軽さにみちていた。
(これはニセ者ではない・・・・)
誰の眼にも、いちどにそれを感じ取って、無遠慮に驚いていた。
本多作左衛門は、こうした情景をはっきり見定めていながら、行列が奥へ消えると立ちかける人々をおさえた。
「方々、油断なりませぬぞ」
「ほう・・・・」 と、誰かがたまりかねたように笑った。
「何を笑われる。笑うときではござるまい」
「と、いわれるが作左どの、あれはニセ者にしてはできすぎているようで」
それゆえいっそう油断ならぬ。本日夕刻、浜松より御台みだい さまご到着なされて、ご対面なさるおりに、心して真偽を見きわめられるよう」
きびしく言って立ちながら、作左衛門は自分で自分が嫌になった。大政所の節くれ立った、大きな指を見た瞬間、
(この母まで送らねばならなかったのか・・・・)
ふと涙ぐみそうになっていながら、心にもない事を言わねばならぬ自分が、たまらなくいや しいものに思えた。
政略の具に使われていることなど知ってか知らずにか、目的地についてホッとしている大政所の歓びに、みじんの嘘も感じられない。その、素朴な老婆を、自分はいったいどう待遇しようとしているのか。
大政所は、いったん、本丸の奥に新築された別殿へ入っていこ われ、着換えをすまして、大広間で家康と対面するはずであった。
そのおりに家康は、おも だった家臣たちを紹介し、そこで夜食を共にする。その間に浜松から朝日姫も到着する手はずであった。
普通だったら当然、家康も出迎えなければならないのだが、それを押えたのも作左衛門にほかならない。
「── 戦に勝った方が、負けた方からよこす人質を出迎えるなどもってのほか・・・・」
みなに聞かせるつもりでそう言うと、重臣たちもわが意を得たりという顔つきだった。
「── いかにも。もしそれが偽せ者だったりした場合は、末代までのもの笑いじゃ」
そうしたときに家康は、一言も賛否を言わず、すべて家臣まかせであった。
むろんそれが作左衛門の苦肉の策と、家康にはよく通じている。家臣の心がほぐれていたら、おそらく彼は、池鯉鮒まで出迎えていたかも知れない。
作左衛門は、大政所が別殿に落ち着いたのを確かめて、それから家康の居間へ向かった。
「大坂のご老婆さま、無事到着にござりまする」
「ご苦労、どうじゃほん物らしいか」
家康は笑いながら、そばの本多ほんだ 正信まさのぶ を見返って、
「弥八朗はの、秀吉が、真物まもの などよこすはずはないと言い張るのじゃが」
そう言えば、本多正信は、家康の側にいていまだ大政所を見てはいなかったのだ・・・・

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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