〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/30 (水) 三 河 の 計 算 (八)

「殿のお志が天下にあること・・・・これはわれらも存じている。それゆえ軽挙はつつしむようにと申しているのじゃ。なあ作左、かりに下向して来る大政所が、ほんものの母堂であったにせよ、たかが老婆ひとりと殿の生命いのち を取りかえてどうなるのじゃ。お身もわれらに同意のはず・・・・これは是非とも思いとどまって貰わねばならぬ、なあ作左」
案のごとく忠次がせき を切ったように言い出した。作左は軽く制して、
「むろんのことじゃが、まあ待たっしゃれ。もう少し殿のおっしゃることを聞かねばならぬ。殿! すると、殿は、家中一統、ご上洛に反対でも、男の意地ゆえ、このたびは思いとどまれぬと、こうおお せなので」
家康はそれには直接答えず、忠次を見やり康政を見やり、さらに正信と正勝を見やって苦笑した。
たしかにどれも同意している顔ではなくて、折があったら一口さしはさもうといういかつくこわ ばった表情ばかりであった。
「そうか、みな反対なのか」
「反対でも思いとどまれぬと仰せられるので」
「思いとどまれぬのう・・・・」
と、家康はうそぶいた。
「いま秀吉に、あなどられると、一生涯あなど り続けられねばならぬ。わしは、侮られながら・・・・先方から仕掛けられながら生きるのは、不得手じゃでなあ」
「殿!」
と、また忠次だった
れごとを申している場合ではござらぬ。みな殿のお身を案ずればこそ・・・・」
「お待ちなされ」
作左衛門はもう一度忠次をおさえて みつきそうな姿勢で家康に向き直った。
彼の心臓ははげしく高鳴り、眼も血色も冴え冴えと艶を増している。もし家康と二人だけであったら、相好そうごう を崩して、
「── さすがわが殿、あっぱれじゃ!」
声に出してあお り立てたいところであった。
(やはり秀吉と太刀打ち出来ないほどみじ めな性根しょうね の家康ではなかった・・・・)
「それでは殿にうかがうが・・・・・ご上洛はやむを得ない事として、家中の不安にどう対処なさるおつもりじゃ。こうこうするゆえ案ずるな、生命を落とすようなことは絶えてない・・・・そう安堵あんど させるだけのご思案はお持ちであろう。さ、それをみなにうかがわせて下され。それからじゃ、われらがご意見申すのは」
家康も、それを待っていたようだった。柔く二、三度うなずき、からかうように微笑した。
「作左」
「はい、うかがいましょう」
「この家康とてな、生命は惜しいぞ」
「惜しんで貰わねばならぬお身の上じゃ」
「それゆえ、みすみす討たれるような上洛はせぬ。よいか、こんどの上洛は身軽では行かぬぞ。心覚えを申し聞かそう。酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、鳥居とりい 元忠もとただ の総勢に、阿部正勝、永井直勝、西尾にしお 吉次よしつぐ 、牧野康成が手勢すべてを連れて参るぞ」
「えっ!? それでは・・・・二万を超えまするが」
眼を丸くして忠次がきき返すと、
「関白の義弟が上洛じゃ。もう少し連れて行く方がよいかのう」
突然、作左衛門は腹をかかえて笑いだした。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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