「殿のお志が天下にあること・・・・これはわれらも存じている。それゆえ軽挙はつつしむようにと申しているのじゃ。なあ作左、かりに下向して来る大政所が、ほんものの母堂であったにせよ、たかが老婆ひとりと殿の生命
を取りかえてどうなるのじゃ。お身もわれらに同意のはず・・・・これは是非とも思いとどまって貰わねばならぬ、なあ作左」 案のごとく忠次が堰
を切ったように言い出した。作左は軽く制して、 「むろんのことじゃが、まあ待たっしゃれ。もう少し殿のおっしゃることを聞かねばならぬ。殿! すると、殿は、家中一統、ご上洛に反対でも、男の意地ゆえ、このたびは思いとどまれぬと、こう仰
せなので」 家康はそれには直接答えず、忠次を見やり康政を見やり、さらに正信と正勝を見やって苦笑した。 たしかにどれも同意している顔ではなくて、折があったら一口さしはさもうといういかつく硬
ばった表情ばかりであった。 「そうか、みな反対なのか」 「反対でも思いとどまれぬと仰せられるので」 「思いとどまれぬのう・・・・」 と、家康はうそぶいた。 「いま秀吉に、あなどられると、一生涯侮
り続けられねばならぬ。わしは、侮られながら・・・・先方から仕掛けられながら生きるのは、不得手じゃでなあ」 「殿!」 と、また忠次だった 「戯
れごとを申している場合ではござらぬ。みな殿のお身を案ずればこそ・・・・」 「お待ちなされ」 作左衛門はもう一度忠次をおさえて噛
みつきそうな姿勢で家康に向き直った。 彼の心臓ははげしく高鳴り、眼も血色も冴え冴えと艶を増している。もし家康と二人だけであったら、相好
を崩して、 「── さすがわが殿、あっぱれじゃ!」 声に出して煽
り立てたいところであった。 (やはり秀吉と太刀打ち出来ないほど惨
めな性根 の家康ではなかった・・・・) 「それでは殿にうかがうが・・・・・ご上洛はやむを得ない事として、家中の不安にどう対処なさるおつもりじゃ。こうこうするゆえ案ずるな、生命を落とすようなことは絶えてない・・・・そう安堵
させるだけのご思案はお持ちであろう。さ、それをみなにうかがわせて下され。それからじゃ、われらがご意見申すのは」 家康も、それを待っていたようだった。柔く二、三度うなずき、からかうように微笑した。 「作左」 「はい、うかがいましょう」 「この家康とてな、生命は惜しいぞ」 「惜しんで貰わねばならぬお身の上じゃ」 「それゆえ、みすみす討たれるような上洛はせぬ。よいか、こんどの上洛は身軽では行かぬぞ。心覚えを申し聞かそう。酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、鳥居
元忠 の総勢に、阿部正勝、永井直勝、西尾
吉次 、牧野康成が手勢すべてを連れて参るぞ」 「えっ!?
それでは・・・・二万を超えまするが」 眼を丸くして忠次がきき返すと、 「関白の義弟が上洛じゃ。もう少し連れて行く方がよいかのう」 突然、作左衛門は腹をかかえて笑いだした。 |