〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/30 (水) 三 河 の 計 算 (七)

家康は今度も本多正信、阿部正勝、牧野康成の三人のほか、京都で富田左近将監の世話になって来ている榊原康政と永井ながい 直勝なおかつ をつれてやって来た。
城に着くと使者に対面する前に、本丸の小書院で忠次と作左衛門を引見いんけん して、
「用意はできていような」
そう訊ねた声も態度も、作左衛門がびっくりするほど穏やかなものであった。
どこにも興奮のいろはなく、固くなっている様子もない。
「殿!」
と、忠次が肩をいからして進み出た。
「大政所をよこすというは怪しいものじゃ。とにかくうかつに承引しょういん はなりませぬぞ」
家康はちらりと忠次に眼でうなずいて、
「作左、有楽はお身に何か話さなんだか」
「何か・・・・と、仰せられると、使者の内容・・・・」
「内容はわかりきっている。時日じゃ。いつごろ大政所を下向させるゆえ、いつごろ上洛するようにという・・・・」
「殿! すると、殿は、ご上洛なさるお覚悟でござりまするか」
作左衛門は、無心になろうと努めながら、自分の声がねばり、膝の手がこぶし になってふる えているのがよくわかった。
表面では忠次とおなじように、上洛反対の立場はとらねばならぬ、と、わかっていながら心の中では、意地悪く秀吉と家康のうつわ を比較しようとしている。
おそらく眼までが、平素と変わった意地悪い光り方をしているに違いないと思うと、胸のあたりがムズムズした。
家康は軽くうなずいた。
「もはや考える時期は過ぎたぞ。御台みだい (朝日姫) が来てから四月 つ。その御台に会いたいとて大政所がおとずれる・・・・となれば、関白の方でも話の筋は通ろうが、われらの意地もまた立て通した。世間ではやはり大政所を人質と見ようでの」
「なるほど・・・・それで、ご上洛とお決めなされたので」
「そうじゃ。このうえこば んだら、関白に笑われようぞ。世間へ意地を立てたのちの相手は関白じゃ。相手の太刀は八方破れ・・・・前代未聞のことをなさる。前代未聞には前代未聞で応じねばなるまい」
本多作左衛門はごくりとつば をのみこんで、
「前代未聞で応じなさるとは?」
いっそう声をねばらせてぐっと上半身をのり出した。
家康はちょっと片頬へ笑いをうかべて、
「天下のおため、大政所までさし下さる・・・・とあれば喜んで上洛いたす・・・・天下のおためはもともと家康の志じゃ」
「わからぬ!」
と、わきから忠次が眼を見据えて首を振った。
「相手は殿が、そう言い出すのを勘定かんじょう に入れてのことじゃ。殿! いのちは一つでござりまするぞ」
「そのとおり・・・・・」 と、家康はまた笑った。
「天下のために尽くす命・・・・それ一つじゃ」
作左衛門は息がつまった。思わずウームとうなって、それからあわてて一座を見廻した。
(果たして今の一言が、忠次以下のみんなに理解されたかどうか・・・・)
家康もまた秀吉の今度の出方を 「母を賭けた男の挑戦 ──」 と見てとって、それに応じるつもりと見えた・・・・が、みんなの眼はまだそこまで届いた眼ではなかった。

「徳川家康 (十二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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