三間六間の大広間に燭台はたった二基。 膳の上には形ばかりの目ざしと香の物がならび、酌人は武骨な若侍二人、あとは話しかければ必ずつっかって来る接待役の老人というのだから念が入っていた。 もし使者の中に彼らの気質をよく知りぬいている織田有楽がいなかったら、もう気まずい事に鳴っていたかも知れない。 全く使者に対する三河側の態度は不遜
そのものであった。 (婚礼の時にはこれほどではなかったが・・・・) さすがの有楽も首を傾
げるほどで、あるいは嫁いで来ている朝日姫が何かひどく家中の反感を買うような事をしでかしているのではあるまいかと、それが案じられた。 (まさか関白秀吉も、こんどの使者が、これほど冷たく迎えられようとは思っていまい・・・・) 例の婚礼のあとで、無事に輿
入れが済んだというお礼の使いに、徳川家から秀吉のもとへやって来たのは榊原
康政 だった。 そのときも、有楽はちょっと心配した。 榊原康政は、小牧の戦のおりに、秀吉を逆賊呼ばわりして立て札や廻状をまき散らして、カンカンに怒らせ、首に十万石の賞を賭
けられた男・・・・選りに選って、そのような男をよこさずとも・・・・そう思ったのだが、秀吉はかえってこれを喜んだ。 「これが家康の味なところじゃ。義兄弟になったゆえ、後にわだかまわりは残すまいと考えてのことじゃぞ」 そう言って、秀吉は、康政が京の富田左近将監の邸へ着くと、その夜すぐに自分の方からわざわざ訪
ねていって康政の肩を叩いた。 「── よくぞ来られた康政、敵のとき十万石をお許の首にかけたは、味方となれば十万石増もしたい器量人だという事じゃ。この後とも浜松どののために忠勤を頼むぞ」 そして、翌日新築中の内野
の邸へ伺候したおりに、さらりと康政にわだかまりを捨てさせて下へのおかずに饗応したうえ、おびただしい引出物
を贈ったものだった・・・・ 秀吉と家康とでは家風が違う。康政と同じような歓待は望めずとも、しかし、こんどはかなり打ち解けた扱いは受けるものと思っていた。 ところがそれは全然逆になっている。 広へ入ったときから、城代の作左衛門も、吉田
から来ている忠次も、何かと言えば突っかかる。 (いったい、何を考えているのか・・・・?) もともと両家の縁組は、家康の面目を立てて、上洛のきっかけを作ってやろうという秀吉の好意に出たもの・・・・それが家康にわからぬはずはなく、分っているとすれば、快く接待したほうが得策
と思われるのだが、三河武士の計算は有楽の算盤
に乗らないところがあるらしい。 そうなれば、もはやこの辺
りでおひらきにするに限ると思った。 (家康に会見する前に、家老どもと口論するような事になってはもの笑いじゃ) 「これは酔うた。ご同役衆。旅の労れもあれば、この辺りで盃を預かってもろうて、休ませていただく事にしましょうかの」 すると、また忠次が銚子
を取り上げていった。 「まだ早うござる。さ、もう一献
、徳川家の酒には、大切な関白殿下のご家来衆を籠絡
するようなそんなあやしい混ぜものはござらぬ。心おきなくお過ごし下され」 |