朝日姫がハッと気を取り直した時には、広間に居並んだ人々はいっせいに頭を下げて平伏していた。 そして金屏風の前に、置物のように坐ったずんぐりと丸い男の体が、かすかの動いたのを感じた。 (家康に違いない・・・・) それにしても、何という色の黒さ・・・・と、それだけ見たのが精一杯で、姫は手を取られたまま上段に導かれた。 ガーンとはげしく耳が鳴り、松平家忠が、うやうやしく何か言ったが、姫にはそれが祝いの言葉と分るだけで、ハッキリと聞き取ることすら出来なかった。 祝言の銚子と盃とが、十三、四の小姓八人で運び出され、その中の二人が、家康と姫の前へ進んで一礼した。 「まずお身から盃を・・・・」 と、家康が言った。 「こればかりは女性
が先と、日本中のきまりらしいでの」 その声はびっくりするほど空々しい、無感動なひびきを持っていた。 姫は盃を取った。 なだ顔も確かめ得ない。が、この盃事で、自分は家康の妻と呼ばれる身になるらしい。 注がれた盃の中へまたしても、亡夫の顔が映っている・・・・ 眼をつむるようにして、姫はその幻ごと一気に飲み下した。 (亡夫の幻を飲んで、家康の妻になる・・・・) 不吉な気がした。 今呑み込んだ佐治日向の顔が、これから永久に自分の内へ住みついて、家康を刺せと命じ続けそうな気がするのだ・・・・ 盃が家康の手に移ったとき、はじめて姫は家康の横顔へ視線をやった。 「あ・・・・」 あやうく叫び出しそうになったのは、丸い備前
焼の狸 を想わす猪首
のわきで、巨大な・・・・それこそ巨大な家康の耳が、大きく動いたからであった。 「── 聞いたぞ」 と、その耳は言った。 「── そなた腹の中で、そなたの呑んだ幻が何と言ったか、この耳は聞きもらさぬぞ」 朝日姫が自分の微熱に気づいたのはそのころからだった。 一応祝言の盃が済むと、こんどは長松丸とその小姓たちが呼び出されて、清水正親の手で小姓たちに秀吉からの引出物
がわたされ、続いて長松丸と姫との母子の盃ごとであった。 それが済んで姫のために建てられた奥の新御殿に入り、着換えを済ませて戻ったころには、もう姫は坐っているのが苦しいほどの熱であった。 (やはり、日向どのが怨んでおられるのであろう・・・・) まだこれから、家康と並んで猿楽を見物し、そのあとで大広間の祝宴にのぞまなければならない。 おそらく慣例で、宴は深夜に及ぶであろう。それまで耐えなければ・・・・と思っていながら姫はついに猿楽の見物中に倒れてしまった。気疲れの貧血に違いない。 が、姫も、そして家康の家臣たちも決してそうは思わなかった。 |