〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/21 (月) 勝 利 者 (十二)

朝日姫がハッと気を取り直した時には、広間に居並んだ人々はいっせいに頭を下げて平伏していた。
そして金屏風の前に、置物のように坐ったずんぐりと丸い男の体が、かすかの動いたのを感じた。
(家康に違いない・・・・)
それにしても、何という色の黒さ・・・・と、それだけ見たのが精一杯で、姫は手を取られたまま上段に導かれた。
ガーンとはげしく耳が鳴り、松平家忠が、うやうやしく何か言ったが、姫にはそれが祝いの言葉と分るだけで、ハッキリと聞き取ることすら出来なかった。
祝言の銚子と盃とが、十三、四の小姓八人で運び出され、その中の二人が、家康と姫の前へ進んで一礼した。
「まずお身から盃を・・・・」
と、家康が言った。
「こればかりは女性にょしょう が先と、日本中のきまりらしいでの」
その声はびっくりするほど空々しい、無感動なひびきを持っていた。
姫は盃を取った。
なだ顔も確かめ得ない。が、この盃事で、自分は家康の妻と呼ばれる身になるらしい。
注がれた盃の中へまたしても、亡夫の顔が映っている・・・・
眼をつむるようにして、姫はその幻ごと一気に飲み下した。
(亡夫の幻を飲んで、家康の妻になる・・・・)
不吉な気がした。
今呑み込んだ佐治日向の顔が、これから永久に自分の内へ住みついて、家康を刺せと命じ続けそうな気がするのだ・・・・
盃が家康の手に移ったとき、はじめて姫は家康の横顔へ視線をやった。
「あ・・・・」
あやうく叫び出しそうになったのは、丸い備前びぜん 焼のたぬき を想わす猪首いくび のわきで、巨大な・・・・それこそ巨大な家康の耳が、大きく動いたからであった。
「── 聞いたぞ」
と、その耳は言った。
「── そなた腹の中で、そなたの呑んだ幻が何と言ったか、この耳は聞きもらさぬぞ」
朝日姫が自分の微熱に気づいたのはそのころからだった。
一応祝言の盃が済むと、こんどは長松丸とその小姓たちが呼び出されて、清水正親の手で小姓たちに秀吉からの引出物ひきでもの がわたされ、続いて長松丸と姫との母子の盃ごとであった。
それが済んで姫のために建てられた奥の新御殿に入り、着換えを済ませて戻ったころには、もう姫は坐っているのが苦しいほどの熱であった。
(やはり、日向どのが怨んでおられるのであろう・・・・)
まだこれから、家康と並んで猿楽を見物し、そのあとで大広間の祝宴にのぞまなければならない。
おそらく慣例で、宴は深夜に及ぶであろう。それまで耐えなければ・・・・と思っていながら姫はついに猿楽の見物中に倒れてしまった。気疲れの貧血に違いない。
が、姫も、そして家康の家臣たちも決してそうは思わなかった。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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