濃姫の父の斎藤
道三 は、蝮
とあだ名された梟雄
で、その娘に、信長を刺せと命じて尾張へ嫁がせたのだという・・・・ その話を、秀吉と北の政所の寧々
とはよくしあった。 そのような夫婦の出発でも、やがて二人は、こよなく睦みあっていったし、秀吉や寧々のように、互いに求めあった夫婦でも、ついには仇敵同士のように憎みあう者もある・・・・二人の話は、そうした人間関係の推移
の皮肉さを語り合っていたのだが、そのことを思い出した朝日姫の場合は全く違っていた。 相手を刺せと命じた道三が、自分のうしろにもいるような気がして来て、ゾーッと背筋が寒くなった・・・・ (もしわが身に、家康を刺せと命ずる者があったら誰であろうか・・・・?) それは兄の秀吉ではなかった。 命ずる者はまた、兄の秀吉を憎んでいる。が・・・・秀吉は主君であり、妻の兄であったゆえ、どうにもならずに怨みをのんで死んでいった・・・・ 朝日姫は、その夜、吉田城の寝所で、しばらく見なかった亡夫、佐治日向守の夢を見た。 夢というより、彼女にとってはやはり幽霊と言うべきであろう・・・・ ふと風音に眼を覚まし、 「誰じゃ!」 と、おびえて声をかけると、音もなく屏風
の前に立ったのは、きちんと髪を結ったまま、下半身を血で彩
って、痩せさらばえた日向であった。 日向は何も言わなかった。 どうしてここへやって来たのか、どのような供養
がして欲しいのかと問いただしても、ただたよりなく立って、じっと姫を見つめるばかりだった。 「もし、なんとなされました! どこかお苦しいのでござりまするか。もし!
もし!」 伊藤丹後の母に揺り起こされて、姫はパッとはね起きた。 そのときには日向は見えず、ぼんぼりの灯りが細々とあたりを照らして、風の音が遠く屋根の遥
かをわたっていった。 「いや、何でもありませぬ。何でもない」 言いながら、姫は、しばらく寝ようとしなかった。 佐治日向の霊が家康を刺してくれとは言いかねて、まだ悲しくそのあたりに立ち迷っている・・・・声に出して呼んでやったら、すぐにもまた、ボーッとそこへ姿を見せて来そうな気がしてならなかった。 (なぜ呼んでやらぬのじゃ。こなたはまあ、薄情な・・・・) 自分で自分を責めながら、しかし声を出すのははばかられた。 朝日姫が、家康を刺してゆく妄想に悩まされだしたのはそのときからだった。 十四日に浜松へ着き、榊原康政の邸へ泊った夜も、その翌夜も、その妄想は彼女を解放しようとしなかった。 こんど眼先にチラつくのは、下半身、朱
に染まった佐治日向だけではなく、髪ふり乱して、閨
で家康に突きかかる、彼女自身のまぼろしだった。 そのまぼろしの消えないまま、ついに式日の十六日がやって来た。 |