〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]』 〜 〜

2011/11/21 (月) 勝 利 者 (十)

濃姫の父の斎藤さいとう 道三どうさん は、まむし とあだ名された梟雄きょうゆう で、その娘に、信長を刺せと命じて尾張へ嫁がせたのだという・・・・
その話を、秀吉と北の政所の寧々ねね とはよくしあった。
そのような夫婦の出発でも、やがて二人は、こよなく睦みあっていったし、秀吉や寧々のように、互いに求めあった夫婦でも、ついには仇敵同士のように憎みあう者もある・・・・二人の話は、そうした人間関係の推移すいい の皮肉さを語り合っていたのだが、そのことを思い出した朝日姫の場合は全く違っていた。
相手を刺せと命じた道三が、自分のうしろにもいるような気がして来て、ゾーッと背筋が寒くなった・・・・
(もしわが身に、家康を刺せと命ずる者があったら誰であろうか・・・・?)
それは兄の秀吉ではなかった。
命ずる者はまた、兄の秀吉を憎んでいる。が・・・・秀吉は主君であり、妻の兄であったゆえ、どうにもならずに怨みをのんで死んでいった・・・・
朝日姫は、その夜、吉田城の寝所で、しばらく見なかった亡夫、佐治日向守の夢を見た。
夢というより、彼女にとってはやはり幽霊と言うべきであろう・・・・
ふと風音に眼を覚まし、
「誰じゃ!」
と、おびえて声をかけると、音もなく屏風びょうぶ の前に立ったのは、きちんと髪を結ったまま、下半身を血でいろど って、痩せさらばえた日向であった。
日向は何も言わなかった。
どうしてここへやって来たのか、どのような供養くよう がして欲しいのかと問いただしても、ただたよりなく立って、じっと姫を見つめるばかりだった。
「もし、なんとなされました! どこかお苦しいのでござりまするか。もし! もし!」
伊藤丹後の母に揺り起こされて、姫はパッとはね起きた。
そのときには日向は見えず、ぼんぼりの灯りが細々とあたりを照らして、風の音が遠く屋根のはる かをわたっていった。
「いや、何でもありませぬ。何でもない」
言いながら、姫は、しばらく寝ようとしなかった。
佐治日向の霊が家康を刺してくれとは言いかねて、まだ悲しくそのあたりに立ち迷っている・・・・声に出して呼んでやったら、すぐにもまた、ボーッとそこへ姿を見せて来そうな気がしてならなかった。
(なぜ呼んでやらぬのじゃ。こなたはまあ、薄情な・・・・)
自分で自分を責めながら、しかし声を出すのははばかられた。
朝日姫が、家康を刺してゆく妄想に悩まされだしたのはそのときからだった。
十四日に浜松へ着き、榊原康政の邸へ泊った夜も、その翌夜も、その妄想は彼女を解放しようとしなかった。
こんど眼先にチラつくのは、下半身、あけ に染まった佐治日向だけではなく、髪ふり乱して、ねや で家康に突きかかる、彼女自身のまぼろしだった。
そのまぼろしの消えないまま、ついに式日の十六日がやって来た。

「徳川家康 (十一) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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