婚礼の日取りの延期は二度目であった。嫁いで行く身にとって、これほど不快な心細い事はない。 朝日姫は、もう、何も思うまいと心に決めた。どのようにもがいてみても、大きな瓶
に投げ込まれた小蛙は、ただいたずらに疲れるだけだと観念するよりほかになかった。 五日に降りだした雨はなかなか止
まず、七日と降り続いた。風を含んだ五月雨
で、すぐこの近くの中村で生まれた朝日姫には、天地の境を煙らして、満々と水に光ってゆく出水の田の面が連想された。 その田の畔に立って、雨と水とのひろがりをどうなることかと眺めやった幼い折の記憶が、そのまま今の自分の身にもあてはまる。 着ている着物も違っていたし、筑阿弥の乙子
という呼び名も、関白殿下の妹姫と変わっていたが、胸をひたす不安は、以前と少しも変わっていなかった。 十日になって、有楽が出発を告げて来た。 たぶん秀吉から家康の満足するような誓書が届いたからに違いない。 しかし有楽もそれを改めて口にしなかったし、朝日姫もたずねなかった。 行列は、細った雨脚の中を清洲から再び東へ向かって進みだした。 このあたりでは近江路や美濃路よりもいっそう見物人の数は増え、中には熱狂して、何か叫んだり手を振ったりする者さえあった。 たぶん、それは中村の百姓の子が、関白殿下の妹姫と呼称を変えた事をことほいでの事であろう。 五月十一日はいよいよ三河の池鯉鮒へ入って、ここで徳川家の出迎えの一行とひとつになった。 徳川家からは、奥添えとして松平家忠、内藤信成
、三宅 康貞
、高力 正長
、榊原康政、久野 宗秀
、栗生長蔵、鳥居長兵衛の八人が加わり、その日の宿舎の岡崎城へ入ると、それぞれ姫の前へ 「お祝い言上
──」 にやって来た。 今までよりも、みんな態度は鄭重
だったが、 (たぶん家康は、兄の誓書が気に入ったのであろう・・・・) 朝日姫は、軽く会釈
を返すだけで、誰が何を言ったのか少しもおぼえていなかった。 翌十二日には、早朝に岡崎を発って吉田泊まり。 ここではじめて朝日姫は、自分の婚礼が十六日に決まった旨を聞かされた。 「明十三日は、お疲れでもござりましょうゆえ、このままこの城にご逗留
なされて、十四日に浜松へおもむくことに決まりました」 幼な馴染
みの伊藤丹後にそう言われたとき、 「では、九日の婚儀が十四日になったのじゃな」 皮肉をこめて言い返すと、 「いいえ、十四日にご婚礼はできませぬ」 丹後守は、姫がその日を待っているとでも解したのか、あわててひと膝すすめて、 「十四日には、浜松にて、ご家老榊原康政どののお邸に入り、ここですっかり旅装を改めまして、十六日に城へ入って婚礼でござりまする。何分にも関白殿下の妹姫と、東海切っての太守のご婚礼ゆえ・・・・」 そう言われたときに、朝日姫は何の関連もなしに、婿を刺せと言われて嫁いで来たという、信長の正室濃姫
の話を思い出していた。 |